美島こずえから、その後メールはなかった。
風邪ぐらいなら、今日は絵を受け取れなくてごめんなさいと、とっくに来ているはずだ。ひょっとしてストーリーボードのことを忘れてしまったのかと思ったが、これまでの彼女の対応を考えればあり得ない。シナリオを送れば、遅くともその日のうちにお礼メールが来るし、すこし解説のつもりで別メールをすれば、それに対する返信も来る。どう考えてもおかしい。さっきはどうも。その後、風邪の調子はどうです? そんなふうにメールしてもいいような気がしたが、風邪原因説を疑っているオレが白々しい気もする。
録音スタジオから戻り、監督が呑みに行っちゃわないように見張りながら、絵コンテチェックを手伝っていた。だがスマホの着信音ばかり、待っている。
監督はストップウォッチで計りながら、ケイゾーのセリフを読みだした。
「シュオン。つ、つまりさ。・・・ぼくは、キミがARMANOIDに改造される前に、言っておきたいことがあって・・・」
さっきから、セリフのタイミングと演技との兼ね合いを決めかねている。セリフをしゃべり終えると、ストップウォッチを止める。「八秒十八コマ。・・長げぇか? もっとテンポアップして言わせるか?」
十七歳になったケイゾーが、シュオンに愛を告白する大事なシーンだった。監督は、セリフの中の「
オレは、このあとのふたりの展開が気に入っている。シナリオ打ち合わせの時に、オレの意見が採用され、絵コンテにも反映されているのだ。
すっかり魅力的な少女に成長したシュオンは、いつまでもぐずぐず告白できないケイゾーにイライラと前髪を掻きむしり、一旦は悪態をついて見せる。だが本当はさっきからとっくにお見通しだったというふうに、あっけらかんとこう言い放つのだ。
「こら、ケイゾー。てめぇー、まさかこのシュオンに、
もともとシナリオでは、シュオンはケイゾーが何をぐずぐずしているのか分からないというキャラだった。だがシュオンは、十七歳になっている。突っ張ってはいるが、女の子としての成長もあるはずだ。恋愛に疎いというのを過剰に強調すると、鼻白む感じがしないでもない。それでオレは「シュオンは受け身じゃなく、もっと自発的に言い返したほうがよくないっすかね」と提案し、採用されたのだ。
『ルビー・スパークス』のようなアメリカ映画のヒロインは、つねに自立していて、好きな男にもびしばし本音をぶつけていく。その対決が、ラブストーリーの見せ場にもなっている。だが日本映画でそういったヒロインが登場すると、なぜか頑張り過ぎてる感が鬱陶しく、ちょっと痛いなと思ってしまうことが多い。ひょっとしてそれは、もともと日本の女の子が男と対等でいるよりもどこかで可愛く見られていたいっていう子が多いからかも知れない。
「よっとくん。ほんとヤキモチ焼かないよね。日に十回はメールしろよっていうのが、フツーだよ」
オレは元カノにもその前の彼女にもたしかこんなふうに言われ、きちんと応えてあげられないうちに、きっぱり音信を断たれている。彼女たちにしてみれば、「ヤキモチ焼かないよねぇ」って遠回しに言ってるうちに気づいてくれない男には、対決しない方法ですっとフェードアウトしたほうが自分で自分を守れるのだ。
「こら、ケイゾー。てめぇー、まさかこのシュオンに、
美島こずえは、今から十ヶ月以上先に、このセリフをシュオンのキャラにどんなふうに吹き込むのだろう。どんなニュアンスで。どんな、思いを込めて。そんなことを思ったら、また美島こずえのことが気になった。
翌日も、その次の日も美島こずえからメールはなかった。
オレの中では、風邪原因説は完璧あり得ないとなっていた。彼女が喉を痛めたのは、何かほかの原因があるのだ。しかも人に知られたくない、何かが。「結構遊んでるんじゃないの?」いつだったか、音響スタッフからの受け売りでプロデューサーが漏らしたことがある。陰口にうんざりしてきたオレが、そんなつまらない噂話まで気になり出している。
アフレコで声の収録が終わると、一週間後にはダビングが待っている。
今度は
——監督を助手席に乗せて効果音の打ち合わせに行く、色彩設計のベテランスタッフに恐る恐る「ここの色指定、違ってたんすけどぉ」と頭を下げて修正をお願いする、シナリオ打ち合わせで議事録を取る、コンビニでみんなの分も大量に夜食を買う、編集作業の直しに立ち合う、そういった様々なシーンでオレはつねにスマホをちらちらとチェックし、彼女からのメールを待っている。そしてそのモンタージュには、相手の女の子の様子もカットバックで挿入されるはずだ。カフェの片隅で(オレからの)メールが来ないかチェックしていたり、一緒に写った写真(そんなものないけど)を眺めていたり、思いあまって電話をかけようとするが、何かがあって思いとどまったりといったものが。
だがオレが勝手に描いたモンタージュに、美島こずえは当然のように登場することはなかった。彼女が好む街並みも、行きつけのカフェやコンビニも、それに彼女の部屋も普段着姿も、すこしも浮かんでこない。
それで気づいたのだ。オレは彼女のことを知った気でいただけで、じつは彼女のことを何ひとつ知らなかったのだと。
思い切ってメールを書いた。明日、ついでがあるので事務所にストーリーボードを届けておきます。
ついでがあるわけじゃなかった。閉じこもるのを得意としてきたオレが、これ以上、自分以外のことで頭をぱんぱんにするのは無理だった。いつもなら、すっと後ろに引いて巣の穴に逃げ込んでしまっているはずだ。元カノにしたように、美島こずえにそんな小狡いことはできない気がした。
意外にも、返事はすぐに来た。すいません。そんなことしていただくわけにはいきません。連絡しますので、待っていただけますか。
それだけだった。ナゾは膨らみ、何かやり場のない小さな恣意が生まれた。それは標的のはっきりしない微かな怒りのようなものでもあり、不意に訪れた焦りのようなものでもあった。ARMANOIDを強化しようと目論む科学者は、こんなわずかな人間のエネルギーをも、きっと見逃さないに違いない。
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