もっとユニークで、最高の食事があるはずだ—「逡巡」第3回

Twitterのフォロワー6万以上、日々トガったツイートで人々を魅了する鬼才、ダ・ヴィンチ・恐山(品田遊)。
初の小説『止まりだしたら走らない』の発売を記念して、大幅加筆版を連載! 都心から武蔵野の台地を横切り東京を横断する中央線車内を舞台に、さまざまなヒトたちの個人的な問題をあぶり出す連作短編です。
食欲を満たすとは、こんなにも難しいのか…… 腹を空かせて電車に揺られ続けた男が、ついにたどり着いた結論とは?

 「健康」という言葉が脳裏をよぎった。若かりし頃は念頭にも浮かばなかった熟語だが、最近は下腹の膨らみとともに切実に迫ってくる。天丼が健康に良いというイメージはあまりない。いや、これはイメージに過ぎず、一概に天丼が健康に悪いとは言えないはずではある。


 たとえば、一週間天丼だけ食べ続けた人と、一週間何も食べなかった人を比較したならば、天丼を食べていた人のほうが健康だろう。しかし問題は「健康に悪そう」という発想そのものだ。ほんのわずかなためらいが、欲望のトリガーを引くのをためらわせてしまう。求めているのは最適解なのだから、ためらいを生じさせた時点で失格である。

 ここで牛丼・親子丼・海鮮丼・ハンバーガー・ステーキ・ピッツァ・中華料理全般が、前述の理由により一気に失格となった。これでかなり範囲が狭まってきた。選択肢を競い合わせ、最後まで生き抜いたものをチョイスする蟲毒のグルメ、残るは「ヘルシー」とされる食べ物群ということになる。

 しかし、これが難物である。あっさりとした食べ物は衝動的な食欲を呼び起こすのに不向きなのだ。わたしは今まで「あ~、なんか精進料理食べたい」と突然言い出す人間を見たことがない。まずその精進料理は論外とする。今何も精進するつもりはないし、どこで食べられるかも知らない。

 それでは定食はどうか。飯に、焼き魚に、味噌汁に、納豆、それと漬け物。丁度よい塩梅に俗っぽく、いわゆるヘルシーとも合致している。これをファイナルアンサーとすべきか。

 いや。しかし。

 まだ何かがわたしをためらわせる。それは「普通すぎないか」という思いである。確かに焼き魚定食は堅実で、よい選択だ。だけれど、本当にそれが最高の答えなのだろうか? あらゆる場合に言えることだが、安全な選択はしばしば、その無難さによって魅力を曇らせる。 そして人々をリスキーな冒険へと導く。そんな危険な誘惑がわたしの肩にも手を回してきた。 定食なんて、却下だ。普通すぎる。もっとユニークで、最高最善の食事があるはずである。

 そんなものは、ない。

 わたしは頭を抱えた。消去法によって全ての可能性を消去してしまった。規則的な列車の揺れによって、胃の空白がまた主張をはじめる。もはや、わたしにはゆっくりと餓死していく以外の道は残されていないように感じた。

 そのとき、ツンとした刺激が鼻孔を突いた。

 発酵した匂いである。まさか、すでに餓死が進行していて、わたしの体が腐臭を放ち始めたのだろうか。顔を上げると、信じられない光景が広がっていた。

 目の前にいた阿呆面の女が、おもむろにパックのところてんを食していたのである。車内には強烈な酢の匂いが充満し、他のわずかな乗客たちは抗議の視線を送っていた。女はそんなことは気にもせず、ずぞぞぞと音を立ててところてんを貪っている。全てを許されているかのような振る舞いだ。

 しかし、今のわたしには、女への驚きも憤りもなかった。酢の匂いを嗅いだ瞬間、まさに、スイッチがオフからオンに切り替わるようにして、わたしはある衝動に取り憑かれてしまったのだ。

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止まりだしたら走らない

品田 遊

Twitterのフォロワー6万以上、日々トガったツイートで人々を魅了する鬼才、品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)。cakesでも連載していた「中央線に乗って」が、満を持して『止まりだしたら走らない』として書籍化。7/8の発売を記念して、大幅...もっと読む

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