こんにちは、外科医の雨月メッツェンバウム次郎です。
今回はこんな「人情」にまつわるお話を。
いつも通りがかる、「廻らない」寿司屋。古びた大きな看板がこの街にはよく似合う。
駅から商店街を一寸歩いて、二本目の左手の筋にある。
その道には、いつも寿司屋の前に大きな人形があった。
人形といったって、本当に人形じゃない。薬局の前の「サトちゃん」じゃあるまいし、寿司屋にマスコットなんてない。
そう、人形とはおじさんのことだ。おじさんは、寿司屋の大将だ。
初めておじさんに会ったのは、4年前の春だった。3年間続いた恋愛を失い、おまけに仕事上の大きな夢にも破れ、失意で胸をいっぱいにしてこの街に引っ越してきた僕。
いつその筋を通りがかっても、かならずそのおじさんは寿司屋の前の、出前用の荷台のついたスクーターに半身で座っていた。僕の知る限り、夕刻も、深夜も、土日は昼間も。寿司屋の板前さんが着るような白い上下の服に身をつつみ、綺麗に刈り込まれた頭に大きなお腹をおっくうそうに抱えて、なんでだかいつもしょんぼりとしていた。
タバコを吸うわけでもない。スマホをいじるわけでもない。
おじさんが「何かしている」ところを僕は一度も見たことがなかった。
僕はなんだか日課になっていた。駅からの帰り道、わざわざちょっと寄り道をしておじさんがいるかチェックするのが。
おじさんがいれば安心したものだ。
筋トレのような長時間手術や上司の顔色伺い、ナース達の機嫌取り、そして膨大な数の「誰でもできるような」書類仕事でくたくたになった僕は「よし、今日も終わった」なんて気持ちになった。なんでだろう。儀式?ゲン担ぎ?そんなおおげさなものじゃない。
きっと、おじさんが生きていて嬉しかったんだ。
毎日変わらず生きてるってことが、どれだけ珍しいことか身にしみていたから。人形みたいに、毎日同じところに同じように座っていてくれて、嬉しかったんだ。手術で大出血した日も、ずっと付き合いのあった患者さんが亡くなった日も、いつもおじさんは同じスクーターに座っていた。なにもせずに。
そんな僕は、おじさんの存在を通じて少しずつその歴史ある街に慣れていった。
ある日。
意を決して僕は、そのお寿司屋さんののれんをくぐった。やっぱり店の前で座っていた、おじさんに挨拶をして。
カウンターにお客さんは誰も座っていなかったけど、おじさんは嬉しそうにドアを開けてくれた。
その日から、常連といってもいいくらいに僕はその寿司屋に通った。友人を連れ、職場の後輩を連れ、家族を連れ、時に一人でも。
こじんまりとした寿司屋の中には他に職人さんが二人いた。彼らが握ってくれた寿司は格別にうまかった。
そして、おじさんが握るところは一度も見なかった。変わらず店の前でしょんぼりと座っていた。
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