東山彰良 前編「唯一最良の可能性だけが残り、美しさが生まれる」

友情と恋、流浪と決断、歴史、人生、そして命――台湾を舞台にしたスケールの大きな小説『流』が話題を呼んでいます。第153回直木賞にもノミネートされ本作を書き上げたのは、エンターテインメント小説で最も勢いのある書き手のひとりである東山彰良さん。自身のルーツともなる台湾出身の祖父の体験をもとにした物語は、これまでの東山さんの小説とは少し感触が異なります。謎と輝きに満ちた物語がどのように紡がれたのか、東山さんの独特な物語世界への向き合い方をじっくり伺いました。

 ああ、世界はなんて広いのだろう!

 わたしは立ち上がってジーンズを穿き、ベルトをしめてトイレから—どこからがトイレで、どこからが外かわからないが—歩み出た。便意などすっかり雲散霧消していた。

—『流』

 いま、最も勢いを感じさせる書き手は? そんな問いに、きっと多くのエンターテインメント小説好きが名前を挙げるのは、東山彰良だ。読んでいるときに感じる圧倒的な迫力とスピード感。続々と巻き起こる話に夢中になって耳を傾ける楽しみ。嵐のような読書体験のあと、頭のなかにズシリと何かが残る感触。それらが混然と含まれているところに、東山小説の稀有なおもしろさがある。

 新作にして大作の『流』を手にすれば、独特の力強い筆致とストーリー展開は、いっそうパワーアップしていることをまざまざと感じる。台湾生まれの東山が自身のルーツと全面的に向き合い、20世紀後半・台湾という特定の時代・土地に挑んだ作品。これまで以上に作品世界に没入させられること請け合いである。

1970年代の台湾を主な舞台とした『流』は、これまで東山さんが書き継いできた小説とは少々感触が異なるようにおもえます。文章やストーリー展開の密度がぐっと高まっている。

 あえて狙ったわけじゃないのですが、今回は、これまでと違うものが知らず「できてしまった」という感触がはっきりありますね。それはたぶんこの作品が、僕自身の体験をもとにしたものだから。そもそも舞台が、僕の出身地である台湾ですし。

 作家デビューしたころから、僕には明確に掲げていた目標があって、それは祖父の物語を書きたいんだということ。『流』のプロローグにあるように、祖父に関する石碑が、中国山東省には本当にあったんです。「この地で何人も殺した」という碑が、ですよ。祖父は戦争中、かなり「やらかした」らしくて。破天荒だった祖父のことを、あれこれ話には聞いていたので、小説の題材としては格好だろうと、以前から発想を膨らませていたんです。

 ただ、まだまだ筆力に自信がなくて、これまで手を付けることはできずにいた。とはいえそのままにしておくわけにもいかず、ならば祖父の話を書く前に、父の話を書いてみよう。そう考えて書きはじめたのが『流』でした。中編くらいのボリュームで収められたらとおもって書きはじめたら、自然にどんどん長くなっていってしまった。まさにこういう作品が「できてしまった」という感じです。たぶん、自分の頭のなかで、話がすでにじゅうぶん醸成されていたんじゃないか。それでずいぶん長い作品になったし、密度もちゃんとあるものになったのだとおもいますね。

自然に伸びていったものだからこそ、作品のボリュームと「重み」が出たのですね。

 自分としては、プロットを立てるのがあまり上手じゃないとつねづね思っていて。だから、主人公が自由に動き回ってくれるときは、できるだけ自在にそうさせておくんです。物語が勝手に収束するまでは終わらせないつもりで、どんどん書き進める。書き手の僕が収まりのいいエンディングを用意したりということは、決してない。作品の長さや有機的なつながり、それに勢いみたいなものは、だからこそ生じてくるのかなとおもっています。

 人為的なものをくわえると、たいていろくなことがないですよ。頭のなかに、あらかじめあるものをなぞるだけでは、なかなかおもしろくならないし、自分を救ってくれる作品にはならない気がします。作家って、書くことによって自分を癒しているところがあるとおもうんですね。少なくとも僕はそうです。でも、前もって考えたものをイチから書いていくやり方だと、癒される感覚があまり得られない。書く楽しさも半減してしまうし、書き終えて振り返ったときにさほど愛せない本になってしまいそう。それは避けたいから、できるだけ物語の勢いに任せて、よけいな邪魔をしないように書き継ぐ。そうしていると、作品世界はどんどん集約されて制限され、おのずと一本の道になっていく。

作品が制限されていく? というのはどういうことですか。

 書くべき世界が頭のなかにあって、まだ何も書いていない状態のとき、その作品世界は一切の制約がなくて、最も広々としているとおもうんです。そこから、いざ一文字を記す。と、一文字分、作品世界の可能性は限定されて狭まる。さらに一行書き、二行書き進めれば、そのつど可能性は狭くなっていく。本を書くとは、つまり可能性を制限していく作業だろうとおもいます。書くごとに道がおのずと決まり、書き続ければどんどん一本の道にすべてが集約されていくんです。

おもしろい考え方ですね。ふつうは一文字、一行と書き進むごとに、作品世界が構築され豊かになっていく、つまり書けば書くほど世界が広がり可能性は大きくなっていくと考えるのではないかとおもいますが。

 いや、何もない状態こそいちばん自由なんじゃないですか。小説にかぎらず、音楽だってそう。自然の音がまずはいちばん自由なものとしてある。そこに和音や旋律を考えて、ひとつの作品として音を構築していこうとすると、一音ずつだんだん閉じていく。可能性がつぶされていくわけですけど、いちばんいい唯一の可能性が残り、それが作品になる。創作が進むほど自由はなくなっていく、しかし美しさとは、そこから生まれるものなんだとおもいますね。

なるほど。可能性を狭めていって、唯一最良の可能性だけが残って作品になるというわけですね。可能性を極限まで狭めた結果としての作品が、どこまでも広い世界を感じさせるというのはおもしろいことです。『流』という小説はとくに、「これしかない」という強い確信のもとにストーリーが進んでいく実感がありますし。

それにしても、作中では荒唐無稽なことが続々と起こります。小説はフィクションですから当然なのですが、虚実が綯い交ぜになっていて、この世界では何でも起こり得ると思い知らされる。その書き方は、20世紀の中南米小説の特長として挙げられる「マジック・リアリズム」の手法をおもわせます。

 南米文学の影響が強いんじゃないかとは、よく言われることですね。たしかに好きでよく読んできたけれど、自分ではそんなに意識しているつもりはないです。あの荒唐無稽ぶりに、もちろん憧れはありますけどね。違う価値観を許容する、その範囲が広いというか。たとえば南米文学を代表するコロンビアの作家ガルシア・マルケス『百年の孤独』のなかでは、女の子がシーツを干していたら風が吹いてきて、シーツと少女が飛んで行ってそのままいなくなってしまったりする。

 とんでもない法螺話に聞こえるものが、ごく当たり前の伝承のようにして受け入れられている。どこにも収束しないし、とりたてて教訓を含んでいるようにも見えないけれど、小説のなかに平気でそういう話をどんどん組み込んでしまう。それで、いいんだとおもう。考えてみれば、たとえば日本では誰もが知っている浦島太郎の話だって、教訓なんて読み取れない奇妙な話です。でも、訳がわからなくて理解できないからダメだなんて言われないでしょう。ああいう話を、ふつうに小説に取り入れていってもいいんじゃないか。

たしかに、『流』をはじめ東山作品は、形よく整えた教訓や「伝えたいメッセージ」を提示することには関心が薄そう。それよりも、物語を語りたいという情熱が勝っている印象です。

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文学者の肖像

山内宏泰

文学とは、なんなのか。文学者たちは今をどうとらえ、いかに作品に結実しているのか。言葉に向き合う若き作家たちの「顔が見える」インタビューシリーズです。

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kayiratooshu 良い記事。 約2年前 replyretweetfavorite

reading_photo cakes連載「文學者の肖像」更新しております。 あわせてどうぞ。 2年以上前 replyretweetfavorite