思い立ったら止められない性格なので、結婚前に一時、突然ジャズシンガーを志し、音楽の専門学校に通っていた。で、専門学生として当然そうすべきと思い、学校のない時間には家の近所にあったファミリーレストランの厨房でアルバイトを始めたのだが、働いてみたら本当に色々な気づきがあった。中でも一番の気づきは、私が自分でも驚くほど使えないバイトだったということだ。
慌ただしいファミリーレストランの厨房においては、一つの注文を受けたら皆が一斉に自分で考えて自分のやるべきことをやらなきゃならない。しかし残念なことに私はハンバーグの注文を受けても、焼き係の先輩に指示されなければフライドポテトを揚げられない、セットと言われてもサラダ作りに着手できない“でくの坊”であった。同時期に入った同い年の女子は私とは真逆のとても気の利く子だったので、食器洗い係からサラダ盛り付け係、揚げ物係へと持ち場を順当にステップアップしていく。一方で戦力外の私はいつまでたっても食器洗い係。ひどく落胆した。そうこうするうちに私は結婚し、妊娠。ひどいつわりに悩まされるようになったので、結局食器洗い係のままバイトをやめた。
その後、専門学校も辞めて、子供を産み、母となった。
子供が育つにつれ、東京でたくさんのママ友ができた。「ママ友」と聞くと無条件に怖いものと思われがちだが、私の周囲のママ友は幸いにも付かず離れずのうまい距離を保ってくれる賢い女性達。おまけにバブル期に遊び尽くしたお姉さん方でもあるわけで、福岡の片田舎から上京したばかりの、掘り立ての芋のような私に、美味しいもの、上質なものを手取り足取り教えてくれた。ホテルのレストランでアルコール付きのランチして、千鳥足で幼稚園までお迎えに行く、そんな毎日。それはそれは楽しかった。
しかし一方で私は、どんなに楽しくても、自分が働いていないということに絶えず後ろめたさも感じていた。母として子供を育てているし、専業主婦にも専業主婦のお務めがあるわけで、決してそれが非難されるような立場でははないはず。だからこれは私自身の問題だった。私の労働体験はあのファミレス厨房の苦い記憶のままで止まっていたたから、「働く」ということが一つのコンプレックスになっていた。
そんな中、色々あって段々と夫婦関係がギクシャクしはじめ、日が経つにつれ夫婦の終わりが見えてきた。そうなると自力でお金を稼げないことへの危機感がいよいよ切実なものとなった。来たるべきときに備えて何か手を打たなければならない。しかし現実的な問題として、最終学歴は専門学校中退、社会人経験ナシ、かつ2児の母である私が、何のツテもなく履歴書を出して面接に赴いたところで「はい採用!」というようなことがあるだろうか。
そこで私は賭けに出た。専業主婦の経験で培った料理とおもてなしスキルをもって、頻繁に自宅でパーティを催したのだ。