沈黙が、唐突に脇から彼を追い抜いてしまった!——そして、何も聞こえなくなった。どういうわけか、しんとしていて、時間が、虚無のように澄んでいる。蒔野は、舞台の照明が目に入った時のように、その静寂を少し眩しいと感じた。人混みで財布を掏られたかのように、音楽がどこにも見当たらなくなっていた。手元にはただ、激しい鼓動と火照りだけが残されている。
聴衆は、突然、演奏が止まってしまったことに驚いた。蒔野自身も呆然としていて、何が起きたのか、わかっていない様子だった。すぐに演奏に戻ろうとしたが、指はただ、指板の上をうろつくだけだった。蒔野はもう一度、驚いた顔をして、怪訝そうに、自分の両手を見つめた。
会場がざわつき始めると、彼は何も言わずに立ち上がって一礼した。客もどうしていいかわからなかったが、疎らに拍手が起きた。蒔野は、ぼんやりと会場の空席の一つに目を遣った。そして、思いつめた表情のまま、一切笑みを見せることなく、そのまま舞台を降りてしまった。
楽屋に戻った蒔野は、舞台上で見せた不可解な仕草のせいで、楽譜が飛んだのではなく、手に何か異変があったのではないかと真っ先に心配された。
学生たちは、こんな人でも楽譜が飛ぶことがあるのかと——しかも、誤魔化すことも再開することも出来ずに、あんなにぶざまに止まってしまうとは!——最初は目を丸くしていた。が、それまでの演奏が圧倒的だっただけに、さすがに不自然に感じて、ギタリストという職業を見舞う、何か悲劇的な一瞬に立ち会っているような興味深げな目で、彼の手を注視していた。
思いがけない反応だったが、蒔野は敢えて否定せず、ただ、「いや、ちょっと、……でも、大丈夫だと思う。」と、両手を握ったり開いたりして、ようやく微かに笑顔を見せた。
着替えたいからと人払いすると、ソファに腰掛けて、しばらくただ、ギターを見つめていた。心の整理がつかなかった。溜息を吐いて立ち上がると、服を着替える前に、携帯電話に手を伸ばした。確認するのを躊躇したが、もう、終わったことなのだと、自分に言い聞かせた。
携帯には、洋子から何度となく着信があり、メッセージが一件残されていた。
急に行けなくなってしまったことを、彼女は「本当にごめんなさい。」と繰り返し詫びた。そして、その理由も含めて話がしたいから、今晩、自宅に来て欲しいと続けていた。肝心なことは、何も語っていなかった。
蒔野は、その住所の説明の途中で一旦電話を耳から離し、思い直してやはり最後まで聞いた。婚約者が一緒なのではないかという考えが、彼の頭を過った。そして、メッセージの再生を終えた電話をソファに放り投げると、しばらくその場に立ち尽くしていた。
*
蒔野は、失敗に終わったコンサート後、まだどこか呆然とした心地で一旦ホテルに戻り、二時間ほど仮眠を取った。さすがにもう治まっていたはずの時差ボケが、急にぶり返したかのような、少しざらついた感じのある眠気だった。ピンと張ったベッドのシーツが心地良く、アラームが鳴っても、うっかり二度寝してしまいそうなほど名残惜しかった。
あんな“大惨事”のあとで
カットソーにジーパンというラフな格好で、ギターケースを担いでホテルを出ると、近所でボルドーの赤ワインを一本買った。タクシーでリュウ・デュ・バックの洋子のアパルトマンに着いたのは、七時過ぎだった。
オスマン建築のその建物の前を、蒔野はパリに住んでいた頃、意識もせずに何度となく通っていた。洋子とも、擦れ違ったことがあっただろうか? その時に知り合えていたなら、今日という日——この二〇〇七年六月十日は、まったく違ったかたちで、彼女と過ごしていたのかもしれなかった。
蒔野は、フィアンセが来ているのなら、部屋に上がらずに帰るつもりでいた。
彼は、コンサート終了後、エコール・ノルマルの教授からも夕食に誘われていた。動揺する彼を心配してのことで、楽器を携えてきたのは、むしろそちらで一晩過ごすためだった。寛いだ気分で、一緒に演奏を楽しむことで、今日の嫌な記憶を消し去ってしまいたかった。
蒔野は、洋子が選ぶくらいなのだから、そのアメリカ人のフィアンセは、恐らくは好人物なのだろうと思っていた。しかし、会えば忘れられなくなるに決まっているその男の顔を、わざわざ見たくなかった。
和気藹々と食事でもすることで、彼女は、誤ったかたちで結ばれかけている自分たちの関係を、一旦解いて、正しいかたちに結わえ直そうとしているのかもしれない。一人の友人として、これから夫となる男を紹介し、そうして一緒に、ここまで昂じてしまった感情の処理をしましょう、と。
蒔野は、もし他人からそんな経験を聞かされたならば、それはそれで、美しいと感じるような気がした。若い頃には、考えもつかない理性的な解決方法だが、年齢相応の諦念とは、その最初の足跡を、こんなふうに胸に残すのではあるまいか。ゆっくりと踏み締めるようにして。
自分もやがて、洋子ではない他の誰かと結婚して、家族ぐるみでのつきあいを続けて、いつか思い出したように、そう言えばあの頃、僕は君を愛していたんだったと、笑い話のように振り返る。歳月には、そうした力があるだろう。いつまでも、未練を抱き続けるというのは、案外、難しいことのような気がした。自分はやがて、極自然に彼女を愛さなくなるだろうか。そして、その未来の光景を、彼はほとんど憎しみに近い感情で拒絶した。
エレベーターを下りると、洋子は、部屋のドアを開けて待っていた。
チェックのカジュアルなシャツを袖を捲って着ていて、薄手の白い長いスカートを穿いている。料理中だったのか、手が少し濡れていた。蒔野がギターを抱えているのを目にすると、
「会場から直接来たの?——ごめんなさい、今日は。本当に楽しみにしていたのに。」
と、間近で彼を見上げながら謝った。蒔野は、首を横に振ると、
「誰か来てるの?」
と尋ねた。
「そうなの。」
彼女が振り返ると、リビングで人の気配がした。蒔野は、先に誰なのかを確かめようとしたが、間に合わなかった。
窓の光を背に、躊躇いがちに人影が現れた。蒔野は真面にその姿を目にした。——が、廊下に立っていたのは、思いもかけない人物だった。
洋子は、この日の朝まで、約束通り、蒔野のコンサートに行くつもりだった。
テュイルリー公園をジョギングして戻って来ると、シャワーを浴びて、バスローブのまま、朝食を食べていた。何を着て行こうかと考えていると、電話が鳴った。見たことのない番号だった。「もしもし?」と出てみたが、返事がない。もう一度尋ねて、やはり無言なので、電話を切ろうとした時、微かな震えるような声が聞こえた。
女性が電話口で泣いているらしかった。
「もしもし? どなた?」
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