第10回】僕はずっと待っていた。妄想が完結するその時まで...

NASAで働く日本人技術者、小野雅裕の日々を描いたエッセイ『宇宙人生』《妻編》第3回!時々会ってはまた太平洋の向こうとこっちに離れるという遠距離生活が、一年が経ち、二年経ち…夢を追う工学博士と愉快で愛らしい妻エリコさん、2人の結末はどうなるのか?

 遠距離恋愛がうまくいくパターンのひとつは、お互いに寂しさを感じる暇がないほど忙しくしていることである。あなたに会いたくて会いたくて夜も眠れないだなんて松田聖子の歌みたいな生活を続けていては心も体も持つわけがない。ロマンチックのかけらもなくたって、バリバリ働いてグウグウ寝るのが一番だ。

 そう、妻のエリコは、小学校の頃の校歌を歌ってといったら間違えて君が代を歌うほどボケていても、海外出張中に関係のないミーティングに忍び込みクッキーをネコババしてベルギー人に怒られても、「辟易とする」を「ヘキヘキとする」と言い間違えて擬態語化してしまっても、バリバリ働くキャリアウーマンなのである。

 僕がロサンゼルスで昼間にバリバリ仕事をしていると携帯が鳴り、「おやすみ、お仕事頑張ってね」とメールが届く。エリコが東京で昼間にバリバリ仕事をしていると携帯が鳴り、「おやすみ、仕事がんばってね」とメールが届く。寂しさや切なさよりも、そんなちょっとした日々の嬉しさのほうが、よほど心の支えになる。

 そうは言ったってやはり週末のスカイプだけでは寂しいから、僕は頻繁に日本に帰国した。最初の一年間で7往復した。そのうち何度かは1泊や2泊の弾丸帰国だった。そんなときは、妻とディナーをして、両方の実家に行って、それで終わりだ。エリコの実家に行くと、彼女は母親のコピーだから、二人で無限に喋り続け、僕と義父は横でポカンとしている。

 それはいいのだが、僕の実家に行っても同じことが発生する。エリコは僕の母親とやたらに仲が良く、やはり僕を置き去りにして無限に喋り続ける。なぜそんなに仲が良いかというと、共通の話題があるから。共通の話題は何かというと、僕の悪口である。たとえばこんな具合だ。

「お義母さん、聞いてくださいよ、きのうヒロが空港から家に帰ってきて鍵をあけたら、手ぶらでニコニコ突っ立ってるんですよ。それで『スーツケースはどうしたの?』と聞いたら急に青ざめて、『あ!!忘れてきた!!…たぶん京急だ…』だって。忘れてくるだけでもありえないのに、品川からうちまでスーツケースがないことにも気付かないで手ぶらでニコニコ帰ってくるなんて、どこまで抜けているんだか。」

 それを聞いて母は大笑いし、続いてまた僕の昔話を大公開する。

「ヒロはほんと昔から落し物が多くてね、幼稚園の先生に、『マサヒロくんが歩いた後には落し物の道ができるから、それを辿っていけばすぐにマサヒロくんが見つかるんですよ』なんて言われたのよ。もう恥ずかしくて。」

 要は、僕の新旧お世話係が「あるあるネタ」を延々と続けているわけだ。

「ヒロったら、ポケットに500ドルの小切手を突っ込んでジョギングして、風に飛ばされてなくしてきたんですよ、信じられない!」

「そうそう、高校生の頃、甲子園で1万円の商品券を落としてきたこともあったのよ。」

「それに、前回帰国したときとか、寿司屋で皿をひっくり返して服が醤油まみれになったんですよ!」

「そういえば七五三のときもスッテーンと転んで、せっかくの袴を台無しにしたのよ。」

 そうやって僕の愚行を暴露しあったあとで、結論はいつも、「昔からちっとも成長してないのね」である。そして挙句の果てには労をねぎらいあう。

「エリコさん、こんなのを引き取ってくれて本当に感謝しているわ。」

「いえいえ、お義母さんこそ22年も面倒を見てこられて大変だったでしょうね。」

「まったくよ。返品不可だからね。」

 こんな果てしないお喋りには心底ヘキヘキとする。それに、いかにも愚行のように笑うが、あれもこれもちゃんとした理由があるのだ。僕は一人でいる時間は、読書をしているか仕事をしているか、そうでなければ常に何かを考えている。研究のこと、火星のこと、宇宙のこと、それに次回の『宇宙人生』の原稿のことなどである。頭が宇宙スケールの思考でフル回転している時に、スーツケースや小切手なんて小さなことに気が回るはずがない。それに、こうやって僕が話のネタを提供するからこそ、彼女たちは世に言う「嫁・姑問題」とは無縁でいられるのだ。感謝されてしかるべきである。(ところで、スーツケースは品川駅にちゃんと保管されていた。しかも何も盗まれていなかった。普通の国でこんなことをしたらまず戻ってこない。ビバ日本!京急の駅員さんありがとう!)

 エリコの喜怒哀楽は大げさで、かつ非常にシンプルに出来ている。同じ映画を10回見ても、同じシーンで10回泣くタイプだ。一時帰国からロサンゼルスに帰る時、エリコはいつも空港まで送りに来てくれた。そしていつも泣いた。まだまだ僕の世話をし足りないらしい。僕はさすがに毎回泣きはしなかったが、そんな彼女の素直な気持ちが嬉しかったし、またアメリカに戻って仕事を頑張ろうという思いも沸いた。

 短い夏休みの間、僕らはハワイで休暇を過ごした。僕らのために東京とロサンゼルスの中間にわざわざ島を作ってくれるとは、神様も粋な計らいをしてくれるものだ。だが休暇の途中で僕たちは大喧嘩をした。仲直りはしたが、休暇最終日も僕の胸にはわだかまりが残っていた。しかしエリコはその時も別れるのが寂しいと泣いた。そんな彼女の裏表のない素直さを見て、僕は人間が小さかったなと反省した。

 そうやって、時々会ってはまた太平洋の向こうとこっちに離れるという生活が、半年経ち、一年が経ち、やがて二年になろうとしていた。4度目の結婚記念日もスカイプ越しで祝ったのだが、気付けば4年のうち一緒に住んだのは1年強でしかなかった。冒頭に書いたように、お互いに仕事が忙しかったから、毎分毎秒寂しがっていたわけではまったくない。でも、時々ふと、寂しさに襲われるときがあった。たとえば職場のクリスマス・パーティーで、多くの同僚が妻や夫や家族と一緒に来ている中で僕がひとりポツンといる時。気晴らしに海までドライブして、ビーチに大勢のカップルや家族連れが週末の時間を楽しんでいるのを見たとき。この海の水平線の向こうにエリコがいるのだな、などという想像は、余計に寂しさを増幅した。

 エリコの職場には、配偶者が海外赴任している場合に3年の休暇を取ることができる制度があった。だが、制度があって、権利があっても、実際はなかなか使えないもの。休暇がもうすぐ認められるかもしれないと聞くと僕は大喜びし、やはりまだ時間がかかりそうだと聞くと僕は落ち込んだ。

 そんなこんなで待ち続け、天井に届くほどに首が長くなった今年3月、ようやくエリコの渡米が決まった。僕は狂喜乱舞した。だがひとつだけ問題があった。部屋だ。

 僕はワンルームの小さなアパートに住んでいるのだが、2年間ろくに片付けもしていなかったので、部屋は竜巻が通過したあとのような状態だった。片付けとは万物の中で僕が最も苦手とするものである。ドラえもんにとってのネズミみたいなものだ。だが、このままだとエリコ様は来た瞬間にお帰りになられてしまう。背に腹は変えられない。

 そんなわけで、エリコ様上陸の前日から大掃除が始まった。当然、一日では終わらなかった。翌朝、まだ片付いていない部屋で目を覚ましたら、飛行機に乗ったよというエリコからのメールが届いていた。時間との戦いだ。油汚れでベトベトのキッチンと格闘し、大量の洗濯物を一気に洗い、バスタブにこびり付いた黒い物体をこすりまくって何とか落とし、カビだらけだったバスカーテンを捨てて新品と交換した。そうして飛行機の着陸2時間前、部屋は見違えるほどにキレイになった。僕だってやればできる。

 そしてデロリアン…ではなく、ホンダのフィットで高速をぶっ飛ばし、空港に向かった。いつも通りのカリフォルニアの爽やかな空で、日は西に傾きかけていた。

 空港の到着ロビーで僕は待った。思えば僕はずっと待っていた。ボストンの空港でエリコを見送ったとき、いつかロサンゼルスの空港で彼女を迎えるのだと妄想をした。もう4年近くの昔だ。その後にMITを卒業し、子供の頃からの憧れだったNASA JPLに転職をし、思ったよりもだいぶ時間はかかったけれども、ひとつずつ妄想は実現していった。人生思い通りに行かないことの方が多いけれども、待てばいいこともあるものだ。そしてその妄想の最後の一ピースをはめるため、僕はさらに二年待った。あと10分。いや、30分か、1時間かもしれない。長編小説の最後の文にピリオドを打つように、今、空港で彼女を待つこの時間が、待ち続けた二年を、そして四年前の妄想を、完結させるのだ。

 やがて東京から到着した便の乗客たちが次々と、到着ロビーにつながるスロープを登って出てきた。そのスロープの向こうに、大きなスーツケースをカートに乗せたエリコの姿が見えた。向こうもすぐに僕を見つけた。抱き合う前にもう彼女は泣いていた。彼女がスロープを登りきったところで、僕はしっかりと彼女を抱きしめた。

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宇宙人生—NASAで働く日本人技術者の挑戦

小野雅裕 /小山宙哉

世界で唯一、太陽系の全ての惑星に探査機を送り込んだ機関があります。それは、NASAのJPL(ジェット推進研究所)という組織。そんな宇宙探査の歴史を切り拓いたともいえるJPLで働く技術者・小野雅裕さんが目指すものとはーー。『宇宙兄弟』ス...もっと読む

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pommeblanc ああ、いいなぁ! 5年弱前 replyretweetfavorite