日本建築論

​日本の民衆の心に響いたベラボーな建築:第6章(2)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。

○マミ・フラワー会館という怪獣

 パリに滞在しながらヨーロッパの前衛芸術家や知識人と交流していた岡本太郎は、1940年、引き揚げ船で帰国した。しかし、そこで待ったいた日本の状況に、彼は絶望することになる。芸術は時代遅れだったし、格好だけが残る京都や大陸文化そのものの奈良の「伝統」にもしらけたという。そして彼は従軍し、4年の軍隊生活と1年の収容所生活を体験している。

 日本的なるものに対する考えの転機が訪れたのは1951年、彼が偶然、上野の東京国立博物館で縄文土器を「発見」し、衝撃を受けたときである。岡本は40歳だった。ここから有名な論文「縄文土器論—四次元との対話」(1952年)が誕生し、彼の作品にも影響を与えている。例えば、激しくうねる曲線、尖った造形、渦巻くダイナミックな構成などだ。そうした傾向は、「喫煙者」(1951年)、「風神」(1961年)、「装える戦士」(1962年)、「顔Ⅲ」(1968年)、「流れる夢」(1975年)などの絵画、あるいは「戦士」(1970年)、「記念撮影」(1975年)、その名も「縄文人」(1982年)などの屋外彫刻の作品に指摘できるだろう。

 その伝統論が、建築界にも影響を及ぼしたことは前回も触れたが、彼はさらにマミ・フラワー会館(1968年)という建築を設計している。残念ながら、2001年に解体され、もう現存しないが、既存の建築の流れにおける位置づけを拒むような異形のデザインだった。実際、20世紀の日本建築を振り返る書籍や企画でも、これをとりあげた事例は皆無である。

 では、どういう作品だったのか。まず、全体的にほとんどが、岡本の絵画でよく登場するような自由曲線でつくられている。中心軸となるのは、ぐにゃりとした、大きな角のような青い塔(内部は螺旋階段)。そしてこれを支えるように、両サイドから付け根が膨らんだ白い骨のようなヴォリューム(階段などが入る)が斜めに伸びて、地上に着地する。すなわち、両手を下げたような太陽の塔というべきか。こうした構成が持ち上げ抱きかかえるのが、口を開けたような円弧状のヴォリューム(教室や製作室など)がである。フラワーデザインの学校ゆえに、反り返った屋根は花弁のイメージを持ち込んだという。

マミ・フラワー会館〔写真提供:岡本太郎記念館〕

 マミ・フラワー会館は生き物のような印象を与える建築だった。例えば、ピロティを支える柱の造形は、あからさまに人間の足を連想させる。実際、江川拓未の論考によれば、岡本は、ご婦人が集まる場所だから大根足を見せてやると語り、また自ら「歯をむき出し、口をぱっくりあけて、二本の足で歩き出しそうな建物」と喩えた(「マミ・フラワー会館に見る岡本太郎の建築への接近と実践」2012年度修士論文)。新聞報道でも、「ビルにツノ」といった見出しをつけて、「怪獣」のようだと評されている。

 当然、モダニズムとも、当時勢いづいていたメタボリズムとも異なったものであり、具象的な表現を行なわない建築の側からすれば、とり扱いに困る作品だっただろう。いわば、社会的な存在としては建築でありながら、抽象的な幾何学に基づく建築の対極が、そこには組み込まれていた。筆者が見ても、例えば、『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する使徒のように見える。むろん、時系列からすると、むしろエヴァンゲリオンが岡本太郎の作品から影響を受けているのだが。


マミ・フラワー会館・模型。下部に足様のものが付いている〔写真提供:岡本太郎記念館〕


○建築を内側から食い破る

 なるほど、20世紀の半ばは、鳥のようなTWAターミナルや、ヨットの帆のようなシドニー・オペラハウスなど、シンボル性をもった構造表現主義のデザインが注目されていた。が、これらは構造的な合理性を強調したものであり、岡本の場合は彫刻のように形態を決定し、その後から構造が検討されている。また、スケッチ、図面、石膏模型、日誌などからマミ・フラワー会館の設計プロセスを検討した江川によれば、周辺環境への配慮も認められない。

 ゆえに、『新建築』や『建築文化』などの専門誌では紹介されず、とりあげた『SD』1968年11月号や『近代建築』1969年6月号も辛口の評価だった。前者ではメタファーの形象化に対する疑問や要素の不統一を指摘し、後者では建築の価値体系をひっくり返すほどの空間ではないという。ただし、長谷川尭は「あれぐらいのものが珍しいようでは本当に今の日本の建築は想像以上に劃一的なのかもしれない」と、建築界への自戒を込めた発言をしている。

 もっとも、岡本の思想を踏まえれば、そもそも建築界から評価されることを目標としていなかっただろう。彫刻として建築をつくって何が悪いか。彼は「猛烈な素人」を自負し、ベラボーな建築をめざした。

 ちなみに、1960年代に岡本は東京湾に人工島をつくり、そこに東京に不満を抱くものを住まわせるオバケ都市論を発表している。同時代の建築家による東京計画は、急激な人口増加に対処すべく、構想されたものだったが、岡本の動機は違う。彼はもともと美術館の中ではなく、公共の場に置かれる芸術を志向していた。弥生的とされた丹下健三の旧東京都庁舎では壁画を担当し、建築と彫刻のコラボレーションを通じて、大衆が触れる芸術の可能性に興味を抱く。そしてマミ・フラワー会館では、彼自身が建築家の役割を担うことになる。ゆえに、彫刻としてつくることで、建築を内側から食い破ろうとした。おそらく、これは彼にとって縄文的な建築だったのではないか。

 なお、建築に関しては、パリで生活していた1930年代に写真で初めて知って以来、岡本がガウディに感銘を受けていたことも付け加えておきたい。その後、彼は67歳のときに現地バルセロナを訪問したが、建築と芸術が融合した合理主義とは異なるデザインに惹かれたのだろう。彼は、ガウディの建築を以下のように評している。「何という不可思議な、独創的建築。激しく、超自然的だ。その異様さに驚きながら、何かひどく身に迫ってくる。共感を覚えた。生きもののような、流動感をもってうねり、のびて行く線。そのからみあい。ちょうどその時分、私が描いていた抽象表現のリズムと、肉体の奥深くで微妙に響きあうものを感じた」(「宇宙を飛ぶ眼」2000年/『岡本太郎と縄文』川崎市岡本太郎美術館、2001年に収録)。

 考えてみれば、サグラダ・ファミリア大聖堂も、マミ・フラワー会館や太陽の塔と同様、天を突くような尖塔が特徴である。またガウディの激しくうねる造形、渦巻きのモチーフ、過剰な装飾などに、縄文的な造形との共通性を指摘できるかもしれない。ゆえに、日本の内部に閉じた縄文ではなく、ともに原始的なエネルギーをもった、インターナショナルな縄文なのである。


○見てはならない土俗的な怪物

 マミ川崎が岡本のエッセイに共感し、マミ・フラワー会館の設計を依頼したのは、1967年である。注目すべきは、同じ年に彼は大阪万博のテーマ館のプロデューサーに就任し、さらにメキシコの巨大壁画「明日の神話」に着手したことだ。すなわち、60年代の末は、彼にとって最大規模のプロジェクトが、3つ同時に進行することになった時期である。

 岡本の最も有名な代表作となった太陽の塔は1970年にお披露目となり、「明日の神話」は設置する予定だったホテルが開業せず、お蔵入りになったわけだから、一連の仕事ではマミ・フラワー会館が最初に実現した。したがって、アーティストの岡本にとって、高さ20mの塔屋をもつマミ・フラワー会館の仕事は、それよりも巨大なスケールに到達した太陽の塔の予行演習的な意味も持っていただろう。なお、太陽の塔では、集団制作建築事務所の吉川健が設計に関わり、構造計算は東京オリンピックの国立屋内総合競技場を手がけた東大の坪井善勝が担当した。

 岡本は1967年にモントリオール万博を視察し、テーマ館を分散させた会場に物足りなさを感じていた。ゆえに、彼はテーマ館を集中させる。また万博は理屈っぽい教室ではない。もっと大衆がお祭り気分を楽しむ場だと考えた。それはシンボルゾーンに据えられた、日本的な「お祭り」+西洋的な「広場」を合成した奇妙な名前のステージを肯定的にとらえなおす発想だろう。

 岡本は、こう述べている(「万国博に賭けたもの」1971年/平野暁臣編著『岡本太郎と太陽の塔』小学館、2008年)。「モントリオール博の日本館の展示に象徴的に現れているように、無難に、バランスをとって、右を見たり左を見たり、気にしてお互いにすくみあっている。これでは魅力は開かない」。日本は見事に近代化したが、「日本人は勤勉で、まじめで、根性があると外国人はもちろん、日本人自身も思っている。だが、そのくせどうも人間的魅力が開かない」。そこで「日本人一般のただふたつの価値基準である西欧近代主義と、その裏返しの伝統主義、それの両方を蹴とばし、<太陽の塔>を中心にベラボーなスペースを実現した」。

 磯崎新は、太陽の塔の出現に対し、「「屋根を突き破ってのびるベラボーなもの」を見て、何だか見てはならない土俗的な怪物が、にょきっと頭をもたげた、と瞬間的に思ったことを記憶している」と回想している(「アイコンがうまれた!」/『岡本太郎と太陽の塔』)。実際、丹下健三による高さ30mの大屋根から、高さ70mの塔が飛びだす、2つのぶつかりあいが重要だった。縄文対弥生の構図である。かつて彼が担当した建築に対する壁画ではなく、マミ・フラワー会館を経て、今度は建築に対する建築的なスケールをもった巨大な彫刻で対峙したのである。丹下という巨人がいたからこそ、岡本の対極主義が輝いた。

 ちなみに、テーマ館のサブ・プロデューサーには、丹下とも親しい、『新建築』を辞めた川添登が名を連ねていた。岡本は、発想の動機をこう述べている。「よし、世界一の大屋根を生かしてやろう。そう思いながら、壮大な水平線構想の模型を見ていると、どうしてもこいつをボカン!と打ち破りたい衝動がむらむら涌きおこる。優雅におさまっている大屋根の平面に、ベラボーなものを対決させる」(「万国博に賭けたもの」)。

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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コメント

Kontan_Bigcat 将来的には、フンデルトワッサーのゴミ焼却場、なかなか愛される建築になるんじゃないかと思っている。だけど、岡本太郎の旧マミ会館(現存せず)→ https://t.co/XBFefIo3ES なんかと比べたらまだまだヌルいよね。 https://t.co/HvIcRjcN6E 3年以上前 replyretweetfavorite

ora109pon 日本の民衆の心に響いたベラボーな建築:第6章(2) | 4年以上前 replyretweetfavorite

consaba 日本の民衆の心に響いたベラボーな建築:第6章(2) マミ・フラワー会館 見てはならない土俗的な怪物| 4年以上前 replyretweetfavorite