蒔野は、ほとんど諦念の響きさえある声で、少し間を置いてから言った。
「洋子さんを愛してしまってるというのも、俺の人生の現実なんだよ。洋子さんを愛さなかった俺というのは、もうどこにも存在しない、非現実なんだ。」
「……。」
「もちろん、これは俺の一方的な思いだから、今知りたいのは、洋子さんの気持ちだよ。」
混雑していた店内は、いつの間にか、客が疎らになっていた。彼らの右隣にはもう客はなく、左隣の客も帰り支度を始めていた。
洋子は、唇を噛んで落ち着かない様子で俯き、また面を上げて蒔野を見つめた。
「あなたは、今は誰とも?」
蒔野は、力なく微笑んで、何も言わずに首を横に振った。そして、店員を呼んでカードで会計を済ませた。バッグを開けようとする洋子を軽く手で制した。
「マドリードから戻るまで、時間をくれない? それまでには、はっきりさせるから。」
蒔野は、頷いてみせると、少し表情を和らげて、
「強引すぎたね。……伝えたかったことは伝えたけど、もっとうまく言える気がしてた。Bonne continuation.じゃなかったな、あんまり。」
と自嘲するように言った。
洋子は、何度も首を横に振った。
蒔野の心を遠ざけてしまったのを彼女は自覚した。取り返しがつかないことをしてしまった。絶望感に、彼女の胸は押し潰されたが、誤解を解く術はなかった。
「うれしかった。本当に。——わたしがよくないの。ごめんなさい。……」
蒔野は、しかし、このやりとり自体に耐えられなくなったかのように、ただ、「行こうか。」と言って立ち上がった。
第五章 洋子の決断(1)
スペインのマドリードで、テデスコのギター協奏曲を演奏した蒔野は、舞台に上がる前から、いつになく緊張していて、開演時間を勘違いしていたり、PAの調整に手間取ったりする現地スタッフに、何度か声を荒らげそうになった。終いには、見かねたコンサート・マスターから、「ここはスペインだから。日本とは違うよ。」と、肩を叩いて宥められた。
演奏は、必ずしも悪い出来ではなく、会場の反応も良かった。指揮者もオーケストラも、終演後はほっとしたように上機嫌で、旧知のギタリストたちは、「サトシ、お前、まだ巧くなるつもりなのか!?」と、笑いながら気楽な賛辞を送った。
昨年の冬に、アランフェス協奏曲を東京で演奏した折には、終演後すぐに、かなり手厳しい自己評価を下したが、今回はむしろ、どことなく不安なまま、案外、悪くなかったのではないかと考えようとしていた。それだけ、余裕がなかった。蒔野の心は浮かなかった。
実際、目立つプログラムだった割に、彼の演奏は、ほとんど評判にならなかった。
記事の扱いも小さく、フェスティヴァルのスタッフが日々更新するブログにも、極あっさりとした報告が載ったに過ぎなかった。
こちらの熱心なファンの中には、蒔野に貰ったサインを自慢しつつ、詳細な感想を英語で綴っている者もあった。アマチュアとしての演奏家歴も長いようで、手の込んだ、全体に好意的な感想だったが、彼はそれを素直に受け止めることが出来なかった。
一言で言うなら、蒔野の演奏は、他の演奏家に比して、相対的にパッとしなかったのだった。それは、大失敗して酷評されるよりも、今の彼には一層応える結果だった。
二日目に自分の出番を終えてしまうと、蒔野は、時間の許す限り、他のギタリストの会場にも足を運んだ。楽しみにしていた演奏の幾つかは期待外れで、がっかりするやら、慰められるやらといった調子だったが、それを皆があんまり称讃するので、自分の耳は、おかしくなっているのだろうかと首を傾げた。
パリのコンサートのための練習の合間に、腑に落ちなかった曲を一々自分で演奏してみて、その録音に耳を傾けた。そういうことも、もう何年もしていなかった。審美的な基準には自信を持っている。しかし、それが世間の基準と、今、合致しているかどうかは心許なかった。そして、自分はギターという楽器に、或いは、音楽そのものに、いつの間にか飽きてしまっていたのかもしれないと考えた。三歳で初めてギターに触れてから、もう三十六年になる。無理もないんじゃないか? そして、そうした不安に怖くなった。
他人の演奏を聴いていて、集中力を欠いてくると、いつの間にか、パリの洋子のことを考えていた。
マドリードに来てから、洋子には一度も連絡しておらず、あちらからも音沙汰はなかった。
彼女は今、婚約者とどんな話をしているのだろうか?
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