第四章 再会(12)第五章 洋子の決断(1)

蒔野のストレートな告白に、洋子はどう答えるのか。物語は、第五章 洋子の決断へと進む。蒔野の音楽家としての活動にも暗雲が立ち込め……。

 蒔野は、ほとんど諦念の響きさえある声で、少し間を置いてから言った。

「洋子さんを愛してしまってるというのも、俺の人生の現実なんだよ。洋子さんを愛さなかった俺というのは、もうどこにも存在しない、非現実なんだ。」

「……。」

「もちろん、これは俺の一方的な思いだから、今知りたいのは、洋子さんの気持ちだよ。」

 混雑していた店内は、いつの間にか、客が疎らになっていた。彼らの右隣にはもう客はなく、左隣の客も帰り支度を始めていた。

 洋子は、唇を噛んで落ち着かない様子で俯き、また面を上げて蒔野を見つめた。

「あなたは、今は誰とも?」

 蒔野は、力なく微笑んで、何も言わずに首を横に振った。そして、店員を呼んでカードで会計を済ませた。バッグを開けようとする洋子を軽く手で制した。

「マドリードから戻るまで、時間をくれない? それまでには、はっきりさせるから。」

 蒔野は、頷いてみせると、少し表情を和らげて、

「強引すぎたね。……伝えたかったことは伝えたけど、もっとうまく言える気がしてた。Bonne continuation.じゃなかったな、あんまり。」

 と自嘲するように言った。

 洋子は、何度も首を横に振った。

 蒔野の心を遠ざけてしまったのを彼女は自覚した。取り返しがつかないことをしてしまった。絶望感に、彼女の胸は押し潰されたが、誤解を解く術はなかった。

「うれしかった。本当に。—わたしがよくないの。ごめんなさい。……」

 蒔野は、しかし、このやりとり自体に耐えられなくなったかのように、ただ、「行こうか。」と言って立ち上がった。


 第五章 洋子の決断(1)

 スペインのマドリードで、テデスコのギター協奏曲を演奏した蒔野は、舞台に上がる前から、いつになく緊張していて、開演時間を勘違いしていたり、PAの調整に手間取ったりする現地スタッフに、何度か声を荒らげそうになった。終いには、見かねたコンサート・マスターから、「ここはスペインだから。日本とは違うよ。」と、肩を叩いて宥められた。

 演奏は、必ずしも悪い出来ではなく、会場の反応も良かった。指揮者もオーケストラも、終演後はほっとしたように上機嫌で、旧知のギタリストたちは、「サトシ、お前、まだ巧くなるつもりなのか!?」と、笑いながら気楽な賛辞を送った。

 昨年の冬に、アランフェス協奏曲を東京で演奏した折には、終演後すぐに、かなり手厳しい自己評価を下したが、今回はむしろ、どことなく不安なまま、案外、悪くなかったのではないかと考えようとしていた。それだけ、余裕がなかった。蒔野の心は浮かなかった。

 実際、目立つプログラムだった割に、彼の演奏は、ほとんど評判にならなかった。

 記事の扱いも小さく、フェスティヴァルのスタッフが日々更新するブログにも、極あっさりとした報告が載ったに過ぎなかった。

 こちらの熱心なファンの中には、蒔野に貰ったサインを自慢しつつ、詳細な感想を英語で綴っている者もあった。アマチュアとしての演奏家歴も長いようで、手の込んだ、全体に好意的な感想だったが、彼はそれを素直に受け止めることが出来なかった。

 一言で言うなら、蒔野の演奏は、他の演奏家に比して、相対的にパッとしなかったのだった。それは、大失敗して酷評されるよりも、今の彼には一層応える結果だった。

 二日目に自分の出番を終えてしまうと、蒔野は、時間の許す限り、他のギタリストの会場にも足を運んだ。楽しみにしていた演奏の幾つかは期待外れで、がっかりするやら、慰められるやらといった調子だったが、それを皆があんまり称讃するので、自分の耳は、おかしくなっているのだろうかと首を傾げた。

 パリのコンサートのための練習の合間に、腑に落ちなかった曲を一々自分で演奏してみて、その録音に耳を傾けた。そういうことも、もう何年もしていなかった。審美的な基準には自信を持っている。しかし、それが世間の基準と、今、合致しているかどうかは心許なかった。そして、自分はギターという楽器に、或いは、音楽そのものに、いつの間にか飽きてしまっていたのかもしれないと考えた。三歳で初めてギターに触れてから、もう三十六年になる。無理もないんじゃないか? そして、そうした不安に怖くなった。

 他人の演奏を聴いていて、集中力を欠いてくると、いつの間にか、パリの洋子のことを考えていた。

 マドリードに来てから、洋子には一度も連絡しておらず、あちらからも音沙汰はなかった。

 彼女は今、婚約者とどんな話をしているのだろうか?

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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