人間と自然とは本来対等なはずだ

狩猟社会には、強者が弱者を一方的、暴力的に支配するのとは違う、ヒトと動物との関係がある。改めて、現代日本という社会に生きているぼくたちが、はたしてどのように動物や自然と向き合っているだろう?


人はかつて樹だった


 毛皮や肉という贈り物をもってきてくれた動物に対してぼくは敬意を欠いていたばかりか、失礼なことをしてしまった。だから「バチ(罰)があたった」のだ。今でも、ぼくはそう思っている。

 こういう話をすると、「そんなのは迷信だ」という声が聞こえてきそうだ。きみはどう思うだろう?

 誤解してほしくないのは、クルアネの人々にしても、ケベック・クリーにしても、「動物は人間だ」と考えているからといって、何も、ヒトと動物とを混同しているわけではない、ということだ。彼らはただ、多くの異なる種類の「人間」があって、ヒト人間はその一種だと考えている。そして、自分たち同士の社会に規則やしきたりがあるように、ウサギ人間との社会関係にも、ヘラジカ人間との社会関係にも、それぞれ別の規則やしきたりがあると考えている。

 ここまで、人類学とともに考えてきたことをまとめてみよう。大事なことは、狩猟社会には、強者が弱者を一方的、暴力的に支配するのとは違う、ヒトと動物との関係があるということだ。そこから、改めて、現代日本という社会に生きているぼくたちが、はたしてどのように動物と向き合っているか、いないかを考え直してみる必要がありそうだ。

 ところで、北米の先住民の中には、動物ばかりでなく、樹木のような植物、さらに岩石のような無生物さえ、知的な存在であり、みな一種の「人間」なのだと考えている人々がいたし、今もいることが知られている。彼らは、木との関係や石との関係をも、「人間」同士の社会的な関係としてとらえている。

 良好な関係をつくり、保つためには、当然、コミュニケーションが大切だ。先住民の中に、動物の声、植物の声、石の声、森の声、川の声を聞き取り、それらと、同じ「人間」同士として語り合うことのできる人々がいたとしても、驚くにはあたらない。

 ぼくたちの現代社会では、そういう能力をもった人のことを「詩人」と呼ぶのだろう。ここでまた、最近亡くなったばかりの、大好きな詩人、長田弘の詩を引用したくなった。『人はかつて樹だった』という詩集の中にある詩から……。

タンポポが囁いた。ひとは、

何もしないでいることができない。

キンポウゲが嘆いた。ひとは、

何も壊さずにいることができない。

……(中略)……

タビラコが呟いた。ひとは未だ、

この世界を讃える方法を知らない。

(「草が語ったこと」より)

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弱虫」でいいんだよ

辻信一

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