人間だけが人間とは限らない
ナマケモノばかりは思うようにいかないにしても、人間であるシャーマンなら、約束を守って、ぼくたちに会いにきてくれると期待していたのだ。キチュア語を話す先住民ガイドが通訳をしてくれた。ぼくの不躾な質問にガイドたちは時にひやひやしたらしいが、シャーマンは終始穏やかに答えてくれた。
ジャガーをはじめとした森の様々な動物たちの精霊と交信する話。パニャコチャ湖の湖底にあるという「町」の話。その町の主である長いヒゲの「こびと」の話……。
そのこびとが最近よく出没して、旅行者にも幾度か目撃されているという。シャーマンによると、それは地上の人間に対してそのこびとが怒りを抱いているせいだ。何を怒っているかといえば、この地上世界を今、大変悪い「波」が覆っていて、それが宇宙の調和を乱しているから。ガイドたちの解説によれば、シャーマンが特に憂慮しているのは、この地方で進んでいる石油採掘と、そのための道路建設が、急速な人口流入と環境破壊を引き起こしていることだ。このまま、人間たちの勝手気ままな振る舞いが続けば、精霊たちの怒りは高まり、宇宙は調和を失って、哀しむべき事態になるだろう……。
湖底の町に棲むカワイルカについて、シャーマンはこう言った。「みんな、イルカは動物だとか魚だとかと思っているけど、本当は人間なのさ」 ポカンとしているぼくたちの気持ちを察して、シャーマンは続けた。「じゃあ、われわれ人間とどこが違うかって? 違うのはただ、彼らの方がわれわれより優れた人間だということだけさ」
ぼくは最後に、何よりききたかったことをきいた。「じゃあ、ナマケモノというのはあなたにとってどんな生き物ですか」。早速彼は上方を見つめるような目つきになった。まるでその視線の先には高い木立があって、そこにミツユビナマケモノがぶら下がっているとでもいうように。やがて彼は答えた。「うん、とてもいい奴さ。いつも静かに、誰に迷惑をかけることもなく、ゆっくり慌てずに、誰と争うこともなく、のんびりと生きている」
何か自分がほめられたような幸せな気分に浸りながら、ぼくはもうひとつ、「ナマケモノのことをあなた方の言葉でなんと呼ぶんですか」と質問した。
よくぞきいてくれました、とまでは思わなかったかもしれないが、シャーマンは確かにとても嬉しそうに微笑んで答えた。「インティジャーマ」。インティは太陽、ジャーマは光線。陽光を全身に浴びる樹上のナマケモノをぼくは思い描いた。実際、朝日が昇り始める頃や、スコールの後の晴れ間に、ゆっくりと木の梢に向かうナマケモノを、ぼくは幾度か見てきた。前にも言ったとおり、それは体温を一定に保つためにエネルギー消費を避けるナマケモノ独特の低エネ生存戦略の一部だ。つい先ほどのナマケモノだって、大雨で冷えた身を暖めようと、木の上へと登る途中で、一休みしていたところだったかもしれない。
でもぼくには省エネ戦略ばかりではないような気がするのだ。木を登り、太陽に向かって身を開くその姿は、祈る姿であるようにも見える。ヨガにある太陽礼拝のように、太陽を崇め、その恵みに感謝しながら、陽光と合体する儀礼によって、ナマケモノことインティジャーマの新しい一日が始まるのだ。
ナマケモノには祈りが似合っている。それはナマケモノが体現している弱さのせいではないか、とふと思う。弱さと祈りは相性がいい。一方、強い者には祈りが似合わない。自分の弱さを知っている人、つまり、謙虚な人は祈るが、強がりの人は祈ったりしない。
「強がりの人」と今ぼくは言ったが、最近は、人間全体が強がりの集団なのかもしれないと思うことがよくある。道理で、祈りが生活の中からどんどん消えている。だが、その一方で、祈りに満ちた暮らしをしている人々のこともぼくは知っている。例えば、ぼくがよく行くブータンという国では、人々の日常生活の真ん中に祈りがあることにぼくは感銘を受けた。でもそれについて話すのは後回しにしよう。
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