アンジェリカか、ジェシカか、もう1人か
「テレビに映る女性が、道端の誰なのか、に迷ったら、大抵はアンジェリカだ!」と熱弁してきた親友とはもう1年近く会っていないが、次に会ったらなぜそう断言したのかを問い質さなければいけない。なぜならこちらがテレビで見かける道端は、大抵の場合、ジェシカだったからだ。しかし、テレビの中に出てくる「道端の誰か」に対する30代男の応対としては、両者とも無難であるとは思う。
抜群のスタイルやゴージャスな生活を繰り返し押し出してくるのは、その言動を適宜引き受ける人がいるからだが、その矛先から決定的に逸れている場合、わざわざその対象に向かっていく必要などない。テレビに出てきた「道端の誰か」を、アンジェリカか、ジェシカか、もう1人か、判別しないままでも構わないのだ。
お気に入りの少女のために投資しまくる人たち
そもそもテレビの中の人なんて、圧倒的に自分と関係のない人、と据え置くのが賢明な態度だ。CDを何百枚と買って、お気に入りの少女に投票して、「これが彼女のためになるのなら」とご満悦な人たちもまだいるようだが、芸能界の内と外はそもそもコミュニケーションが切断されている、というところからスタートしないと、芸能界の内に操られることになる。
ファン心理というのは、「操られてもいい」という譲歩から優しく起動して膨らんでいく。女の子に気に入られるために投資しまくるべし、という環境設定は夜のお仕事そのものなのだが、例の選挙ほど露骨でなくとも、ファンの忠誠心はそれぞれの対象に対して注がれ、その視線の濃さと熱さが常に問われていく。その濃度と温度は一部の人だけにあればいい。自分の周辺が「道端の誰か」で済ませていても、その人にとって明確にアンジェリカならば、道端アンジェリカは私たちの前に登場し続けるのである。
「この人のどこに需要があるのだろうか」と疑問視する需要
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