第四章 再会(11)

二人はまだ出会って二回目の夜。ただ、初めてあった日から蒔野の人生には小峰洋子という存在が不可欠なものになっていた。その思いを蒔野は洋子に伝えはじめ……。

 蒔野は、笑みそのものが抜け落ちてしまったあとの自分の笑顔を持て余した。

 洋子がその一言に込めた意味は複雑だった。

 事実、まだ、たったの二回しか彼らは会っていなかった。そして、何かが起こるとするならば、今夜を逸してはもう機会はないはずであるのに、二人は依然として、互いのことが「まだわからない」状態のままだった。

 蒔野の心拍は高鳴った。水を少し飲み、口を開きかけたところで、会話が途切れたのを見計らった店員が、デザートの注文を取りに来た。

 口頭で選び、改めて向き合うと、今度は洋子が携帯電話の着信を確認して、バッグを片手に「ごめんなさい。」と一旦席を外した。

 さげていいかと店員に尋ねられた洋子のグラスには、半分ほどがまだ残っていた。今日は、シャンパン一杯と、これにほとんど口をつける程度だった。

 込み入った電話だったのか、少し経ってから戻って来た洋子は、

「もう十一時ね。あっという間。蒔野さん、明日は早いの?」

 と尋ねた。

「いや、少しゆっくりしてから、一日練習だよ。」

「ああ、そうよね。マドリードで聴けないのが残念。コンディションをいつも維持し続けるって、大変でしょうね。」

 蒔野は、さっき、意を決して言おうとしたことを口にしかけたが、言葉は会話の流れに乗って、勝手に脇に逸れてしまった。

「ジャーナリストの方がよっぽど大変だよ。こっちは、命の危険なんてないから。」

 洋子は、デザートがサーヴされるのを待ってから言った。

「今度ばかりは、わたしも、どうしてこんな仕事してるのかなって考えた。テロに巻き込まれかけて、……それは、とても恐かったから。」

「当然だよ。—そういえば、訊いてなかったな、どうしてジャーナリストになったのか。他の人からは、もう散々尋ねられてるだろうけど。」

「大した理由はないのよ。子供の頃からなりたかった職業でもないし。」

「そう?」

「全然。わたしは、自分が何になりたいのか、ずっとわからなかった。よくある話だけど。ジャーナリストって、そういう人間に向いてると思う。世の中の色んな事件を取材して、色んな人に会って、話を聞くことが出来るでしょう? わたし個人は一生会えない人も、RFPの記者だって言えば取材に応じてくれるし、質問にも答えてくれる。もちろん、わたしに対してじゃなくて、匿名の読者に向かってね。ヘンに我が強くない方がいいところもあるから。でも、広く浅くたくさんのことを知るだけだから、蒔野さんみたいに、一つのことを深く追求している人、すごく尊敬する。」

「よくわかるけど、……『広く浅くたくさんのことを知る』ってことで、バグダッドにまで行けるのかな。」

「この仕事をしている以上は、すべきことはわかってるし、それをしたいとも思ってる。もちろん、危険はあるけど、行かないことの不安も、それはそれで苦しいものよ。わたしだけじゃなくて、志願者はたくさんいたから。……それに、今の世界を知りたいと思えば、イラクだけは除外するっていうことは無理でしょう? グローバリズムの時代だから。おかしな言い方かもしれないけど、わたしだって、気がついたらバグダッドにいたみたいなものなの。……四方八方から、近くからも遠くからも、あらゆることがわたしたちの運命を貫通してゆく。為す術もなくね。それが、銃弾のかたちをしてることもある。—そういうことじゃないかしら?」

 蒔野は、しばらく言葉もなく、彼女を見つめていた。そして、理解するように頷くと、イチゴと大黄を使った新奇なデザートを少しつつきかけて、また顔を上げた。

「地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ。」

 洋子は一瞬、聞き間違えだろうかという顔をした後に、蒔野がこれまで一度も見たことがないような冷たい目で彼の真意を探ろうとした。

「そういうこと、……冗談でも言うべきじゃないわよ。善い悪い以前に、底の浅い人間に見えるから。」

「洋子さんが自殺したら、俺もするよ。これは俺の一方的な約束だから。死にたいと思いつめた時には、それは俺を殺そうとしてるんだって思い出してほしい。」

「酔ったの?」

「全然。—苦しんでいるのに平気そうにしてる人間が、その苦しみの源を、何か破滅的な方法で絶とうとするのは、……恐いよ。そうすることで、同時に自分が苦しんでいたことを、人に理解してもらおうとするのも。—《ヴェニスに死す》、原作を読んだよ。それで、伝記的な文庫のあとがき読んで、トーマス・マンって作家のこと、考えてたんだ。妹二人が自殺してることとか、あと、長男もかな。俺は全然詳しくないけど、あの人はあの小説で、主人公に身代わりになってもらったことで、自分は生き続けられたんじゃないかと思う。」

「ああ、……それで? 大丈夫よ、わたし、自殺なんて考えたことないから。」

だからこそ 、、、、、 、心配なんだよ。だから、……『ヴェニスで死なずに帰ってきたアッシェンバッハ』って、洋子さんが自分で書いてた話は不穏だよ。それで、原作読んだんだ。洋子さんとこうして話すために。—いつも側にいられて、いつも俺に話してくれるなら、他に洋子さんを支える方法があるけど、それがままならないなら、今言ったみたいな方法しか思いつかない。馬鹿な考えかもしれないけど、俺は一度口にしたからには、必ずその約束を守る。」

「やめてよ。……やめて。」

 洋子は、困り果てたように、ようやく苦い笑みを口許に過らせた。

「洋子さんの存在こそが、俺の人生を貫通してしまったんだよ。—いや、貫通しないで、深く埋め込まれたままで、……」

 蒔野は無意識に、シャツの胸を掻き毟るように強く掴んだ。そして、どうしていいのかわからなくなって、一層力を込めると、その奇矯な仕草をごまかすかのように、シャツに出来た皺をぞんざいに撫でつけた。銃創から溢れた血でも気にする様子で、ちらと胸と掌に目を落とした。彼は会話のただ中で立ち尽くしてしまった。

 洋子は、蒔野のその言葉とその姿に、激しく心を揺さぶられ、頬を紅潮させた。しかし、溢れ出す彼への思いを押し殺すように、大きく息を吐くと、少し笑って言った。

「わたし、結婚するのよ、もうじき。」

「だから、止めに来たんだよ。」

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