H氏賞受賞に対する困惑
そもそも黒田三郎が詩人たりえたのは、昭和30年(1955年)に出した彼の最初の詩集『ひとりの女に』が詩壇の芥川賞とも言われた、現代詩人会による第五回H氏賞を受賞したことによる。そう書くと詩壇から黒田三郎が評価されたかのようだが、これはどちらかといえば、詩集『ひとりの女に』が売れたことによるものだった。現代詩を名乗る詩人の詩集が売れたので詩壇が取り込んだのである。黒田三郎自身はH氏賞に困惑した。本人への通知より先に新聞報道が先行したことも困惑であった。(『赤裸々に語る』より)
この決定に、僕は全く困惑した。というのも、戦後はひとまわりからふたまわり年長の詩人たちに敵対して、詩を書いてきたのだからである。もともと現代詩人会は、当時四十歳代の後半の詩人たち三十数名が昭和二十五年に主義主張を超えて、親睦のために結成した団体である。評論集「内部と外部の世界」に収めた評論でもわかるとおり、僕自身の批評は個人名を挙げなくても、主としてこの世代の詩人たちに向けられたものであった。H氏賞は当時その幹事会がH氏の委託を受けて、決定していたのである。
敵対者から、見下されて新人賞扱いで賞をもらうのか。こう思うとやりきれなかった。もちろん、会員個々には親愛感を持つ詩人が少なくなかったが、既存のものをすべて否定して、自分自身の足で立つことに誇りを持つ人間が、そんな賞を安易にもらえるものかどうか。
もう一つ困惑することがあった。
(前略)いさぎよく受けようと僕が決心した最も大きな理由は、決定にさいして残った候補詩集が山本太郎「歩行者の祈りの唄」だったと、きいたからである。山本太郎は僕より五、六歳若いが、戦後、刮目した詩人の一人である。彼と僕が並んで、僕に決まったなら、名誉ではないか。辞退したら、相手の山本太郎に対しても礼を欠く。賞の決定なんて、最後はサイコロみたいなもので、山本太郎に決まってもおかしくはなかったのだから。
前回書いたが、山本太郎は私の詩の師の一人であるがここでは立ち入らない。背景を思うに、詩集『ひとりの女に』の詩壇へのインパクトは強かった。昭森社の森谷均も関わっている。(『赤裸々に語る』より)
僕が最初の詩集「ひとりの女に」を昭和二十九年(一九五四年)昭森社から刊行したのは、三十五歳のときだった。実際にその作品を書いたのは、昭和二十三、四年(一九四八、四九年)のほんの一、二ヵ月で、詩人北園克衛の紹介で、昭森社の今は亡き森谷均に原稿を渡したのは、昭和二十五年(一九五〇年)のことである。
(中略)
紹介してくれただけでなく、装幀からいっさいを北園さんがやってくれ、しかも自費出版でなく、昭森社の責任で森谷さんが出版してくれたのである。これで売れなかったら、どうしようもなかった。しかし、僕には売れるなんてあては全くなかった。
当時のことを、今は亡き「ユリイカ」の伊達得夫が「詩人たち」のなかに「黒田三郎のこと」として記しているが、狭苦しい二階の昭森社の一室に「ユリイカ」が同居し、さらにその後は「現代詩手帳」の思潮社まで同居するという時代であった。もっと以前のことを書くと、階下の酒場「ランボオ」は戦後文学の第一頁を彩る存在だったが、当時はすでになかった。
売れるあてなんかなかった詩集「ひとりの女に」が、売れたのである。
「ユリイカ」の伊達得夫は、『ひとりの女に』について「戦後の詩書として空前のベストセラー」と記した。もちろん、詩書としてのわずかなベストセラーではあるが。
往復書簡に残されていた愛の言葉
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