詩は「生活の歪み」から生まれる
黒田三郎は『詩の作り方』でもう一か所、この「紙風船」に関連して、やや奇妙なことを述べている。
僕自身は、自作について語ることは、あまり好きではありません。しかし、作品によっては、そういやでもないものもあります。どの詩でも、僕の生活の歪みから生まれています。作者である僕の念頭から、その歪みははなれることはありません。
注意したいのは「歪み」ということだ。詩が生活の歪みから生まれるともしている。関連して自作「紙風船」を引用した後、こうも漏らしている。
この詩をかいたのは、昭和三五年ごろだと思います。この場合、僕の感じた歓びは、やはり無から有を生んだようなものでした。僕のかいたどの詩にも僕の生活がしみるようににじんでいますので、そういう詩を読むと、いまでも心が痛みます。問題自身はけっして、社会的にも、僕の心のなかでも、解決していないからです。
「生活から生まれる歪み」は、生活から滲むものであり、「心の痛み」でもある。それは詩作によって無から有となっても、解決されることもなく、むしろ「心の痛み」として存在する。
ここで注目したいのは、「昭和三五年ごろ」という表現の意味合いである。詩の作者として詩をその個人史の文脈で読まれることは本意ではないだろう。例えば、「昭和三五年ごろ」を彼の年譜と付き合わせても、明確な照合があるとも限らない。調べてみても、詩壇のもめ事の他には、実際にそれと思えることは見当たらない。それでも、黒田三郎が現代詩のなかで傑出しているのは、詩が黒田三郎という詩人の存在に回帰していく道を明確に残している点にある。
彼の詩が自身の人生に回帰していくことは、彼自身でも自覚していた。本書『詩の作り方』は一般向けの詩作の手法についてやさしく解説した書籍でもあり、詩作の内的な過程を詩人の内側から語った珍しい書籍でもあるが、なにより、詩と詩人というものを明確に言い切っている。
詩というものは、現在の地位や立場を、何もかもなげうってしまわなければ書けないという性質があります。大学教授という立場に安閑としていれば、その詩にも限界があります。僕自身は大学教授ではありませんが、しかし、このすべてを無にしてしまう原則はよく知っているつもりです。
この断言は圧倒的である。おそらくそのためだろう、本書は昭和44年(1969年)に初版が出て、その後、存命中や妻・光子の許可を得た追加もあるが、現代でもなお版を重ねて読み継がれている。
詩は「何もかもなげうってしまわなければ書けない」
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