第四章 再会(10)

洋子の父、ソリッチの映画の話から蒔野の音楽の話へと会話は進み、洋子はイラクで蒔野のバッハに救われたことを伝え……。

「わたしは、父の映画について客観的に語ることは難しいけれど、……そうね、美しいからこそ、あの凄惨な世界を受け容れられるっていうのも、あるでしょうね。剥き出しのまま、直視できる人は少ないから。見ても、すぐに忘れようとしてしまう。記憶の中から消してしまおうって。イラク報道をやってて、それは何度も痛感した。」

 洋子は、そう言って微かに首を振ると、フィレ・ミニョンのステーキをサーヴしてくれた店員に、「Merci!」と笑顔で礼を言い、「おいしそう!」と目を瞠った。

「少し、食べる? 前菜は、話に夢中になってて、交換しそこなっちゃったけど。」

「ああ、……じゃあ、こっちもちょっとあげるよ。今日は肉を食べるんだね?」

 蒔野は、そう言って、自分の鱈を少し切って、ソースを絡ませて彼女の皿の縁に乗せた。「Bonne continuation. ……」という店員の少しきざな決まり文句が、今夜は胸に響いた。

「ああ、おいしいね。そっちの方がアタリだ。俺も肉にすればよかったかな? 機内食が牛肉だったから。」

「もっと食べる? わたしもこんなにはいらないから。」

「ありがとう。でも、大丈夫。」

 洋子は鱈とステーキとを一口ずつ味わって、

「ほんとね、わたしの方がアタリかも。」

 と笑った。蒔野は、白ワインを一口飲んでから、先ほどの話に立ち戻った。

「美っていうのは、そういう厄介な仕事をずっと担わされてきて、もうくたびれ果ててるんじゃないかと思うことがある。」

 洋子は、すぐには返事をせずに、少し考えてから口を開いた。

「やっぱり、ロマン主義以降かしらね、美にあまりに多くの期待が伸しかかるようになったのは。美しくないものまで、随分と面倒を看てきたから。……でも、表現すべきものを媒介するだけじゃなくて、この世界の悲惨さから、束の間、目を背けさせてくれる力もあるでしょう、美には?」

「あるけど、それについても、些か悲観的でね、最近は。……美には、人気が衰えながら、辛うじて舞台に立ち続けてる往年の歌手みたいなところがあるよ。美のファンは減ってるよ、明らかに。」

「美も仕事を選んでるのよ、その分。もう良い仕事だけすれば十分な存在なんだから。」

「うまいこと言うね。……俺は、洋子さんのメールを読みながら、イラクで一体、俺の音楽に何の意味があるんだろうって、やっぱり考えた。……カラシニコフの銃弾が飛び交う世界で、俺のバッハに、どれほどのありがたみがあるのかって。」

 洋子は、その言葉をすぐにきっぱりと否定した。

「わたしは、実際にバグダッドで蒔野さんのバッハの美に救われた人間よ。」

「メールにもそう書いてくれてたけど、……本当に?」

「疑ってたの?」

「そうじゃないけど、……そんな状況を思い浮かべながらレコーディングしたわけでもないから。想像がつかない。」

「バグダッドは、……今は絶望的な状況だけど、わたしはそのただ中で、初めて本当にバッハを好きになれた気がしたの。やっぱり、三十年戦争のあとの音楽なんだなって、すごく感じた。」

 蒔野は、何の衒いもなく語られたふうのその一言に、胸をゆっくり強く押し込まれるようなショックを受けた。

「わたしはプロテスタントじゃないから、肝心なことはやっぱり理解できていないかもしれないけれど、ドイツ人の半分が死んだなんて言われてるあの凄惨な戦争のあとで、教会に足を運んだ人たちは、やっぱり、バッハの音楽に深く慰められたんだと思う。そういうことを信じさせてくれたのは、蒔野さんの演奏よ。ご当人は、無自覚らしいけど。」

 洋子は、急に黙ってしまった彼の目を覗き込むように言った。

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corkagency パリでの再会の夜。洋子の父、ソリッチの映画の話から蒔野の音楽の話へと会話は進み、洋子はイラクで蒔野のバッハに救われたことを伝える.. https://t.co/ryLj8jKATb #マチネの終わりに 更に2人を好きになるシーンです http://t.co/QPqz0omqA3 約3年前 replyretweetfavorite