営業としての覚悟

美沙は営業として初めての客先で手ひどい失敗をする。そして、同時に営業として大切なことは何なのかを学ぶことになる。この小説は、ひとりの崖っぷちOLが会社の魂を変えるまでを描く新感覚のビジネス小説です。

「坂井部長と私たちは、坂井部長が思う信頼関係が築けていますか?」

坂井の素性の知れぬ顔を耳にし疑心の念が深まる中、美沙は思い切って坂井に訊ねた。サニーを訪問した帰り道、すでに日が落ちかけ薄暗さを増した景色の中では坂井の表情をはっきりとは見て取ることができなかった。美沙はほのかに期待しつつ坂井の返事を待つ。

「どうでしょうね」

 えっ? ほのかな期待は裏切られたというべきか。

「少なくとも、浅井さんのことは信頼しています」

「えっ」

付け加えられた坂井の言葉に思わず声が漏れた。上げて落とす坂井の常套手段には慣れっこだったが、完全に不意を突かれた。本当はもう少し突っ込んで坂井の素性を明かしたかったが、完全に美沙は言葉を失っていた。

「浅井さんは押上ですから一番ホームですね。私は逆なのでここで」

「は、はい」

 気づけばサニーから二十分ほどかかる駅へと到着していた。そして坂井の背中はすでに見えなくなっていた。

翌日。

「浅井さん、ちょっといい?」

美沙と業務がエクスチェンジされた村中達也は、始業時刻を知らせるチャイムの余韻が残る中そうそうに美沙の席にやってくると、隣の椅子をグイッと引っ張りドスンと勢いよく腰を下ろした。美沙の隣の席(草加とは逆側)は、出張者席でほぼ常に空席だった。

「で、これって何?」

 村中は高さ10センチほどの書類の束を美沙の目の前に置き訊ねた。「あぁ、もうこの時期がやってきたのか」目の前の分厚い束を見つめながら美沙は心でため息まじりにつぶやいた。そして村中に向き合い説明をした。

「これは売掛金残高確認のためにお客様に送付する書類です。お客様の買掛金とうちの売掛金が一致しているか確認します」

この業務は一年の中で美沙が一番メンドウだと思う業務であった。他部署は少なくとも女性が二名はいるので、分担して作業を行っているが、美沙の所属するマイクロ第一営業部は営業事務が一名しかいない。百余ある客先の案件を一つずつチェックし、封筒に宛名シールを貼り送付する。もちろん、他の日常業務がなくなるわけではないので、この時期は滅多にない残業を美沙は強いられていた。

「村中さん、この業務はかなり厄介です。初めから村中さん一人にお任せするのは難しいと思うので、二人でやれるように坂井部長に掛け合ってみますね」

「ぜひ頼むよ」

そうは言ったものの、ホワイトボードに目を向けると、坂井は今日から一週間の熊本出張が入っていた。正直営業の仕事も何をしてよいのかわからないし、坂井のいない一週間、美沙は村中への引き継ぎに専念することにした。

美沙が営業になってから今のところさほど変化はなかったが、ひとつだけウンザリする変化があった。メールの受信数だ。坂井と村中が担当している客先に関係するメールは、すべて美沙にも入れられるようになっていた。技術・製造・資材……さまざまな部署からの半端のないメールの数。美沙の送信するメールが読み流され忘れ去られるのも、少しだけわかってしまう気がした。もちろん、納得をしたわけではない。美沙はメールの見逃しがないよう、開いたらすぐに返信をするようにした。坂井からのメールにもしっかり応えている—はずだった。

 一週間後。

「おはようございます。浅井さん、ちょっといいですか?」

出張から帰るなり、坂井は美沙を呼び出した。いつものごとくアンドロイド坂井の表情からは何も感情が読み取れなかったが、それでも喜ばしい呼び出しではなさそうだと美沙は感じた。

いつもの中会議室に腰を下ろすなり、坂井は美沙に訊ねた。

「浅井さん、この一週間何をしていましたか?」

「はい。村中さんに事務の仕事を引き継いでいました。正直、営業として何をすればよいのかもわからなかったですし。坂井部長もいらっしゃらなかったので」

「引き継ぎのことはわかりました。ただ、私がいなくてもできることはあります」

「そうかもしれません。ただ、この一週間は事務の仕事が一年で最も忙しい時期だったんです。だから村中さんと二人で事務作業をしたことは正しかったと思っています」

坂井の前では美沙は自身を主張することに臆しなくなっていた。しかし坂井はその主張に何も反応をしめさない。美沙の言葉は坂井を素通りし、後ろのホワイトボードに吸収されたようだ。

「浅井さん、営業として一番大切なことは何だと思いますか?」

唐突な坂井の質問に真意はわからずとも美沙は直感で思うがままに答えた。

「お客様とよい人間関係を築くことでしょうか」

「よい人間関係とは?」

「はい。やはり営業マンは人間性が大切だと思うんです。この人が言うなら、って製品を買ってくれるかもしれないですし。お客様の笑顔を第一に考えて行動することが大切だと思います」

「浅井さんが先日3時間も並んで園田のバームクーヘンを手土産にしたのも、お客様の笑顔のためですか?」

「はい。せっかくならば他の人がやらないようなことをやりたいと思いました。3時間も並んで手土産を購入する人はいないと思ったので。そういう小さな積み重ねがお客様の笑顔に繋がり、よい人間関係にも繋がると思うんです。そしてそれは製品購入にも繋がると思います」

「なんだかワイロみたいですね」

「そ、そんなことはありません!」

思わず美沙は声高に必死な声を発していた。

「浅井さんはネットショッピングなどしたことがありますか?」

 えっ? また話がまったく違う方向にいった。美沙は混乱するも、余計な思考をやめ淡々と答えた。

「ありますけど」

 ワイロ呼ばわりされたことへの不満が、美沙のぞんざいな口調に現れていた。

「購入前に少し不安になったことはありませんか?」

「ありますね。そんなときは、問い合わせをします。メールで気になる点を質問します」

「その際、返信はすぐにありましたか?」

「一度だけ、本当にすぐに返信をいただいたことがあって。その時は電話で話したいと伝えたところ、すぐに折り返してくれました。とても親切な方だったので、求めている色が完売していたのですが違う色のものを購入してしまいました。でもそのショップ以外のお店は返信がないことが多いです。次の日まで返信がないと、もういいや、って。そういえば忘れちゃってました」

「浅井さんの行動はごく自然なことです」

「えっ? 違う色のものを購入したことですか?」

「はい。そして、返信がなくて忘れてしまったこともです。人間というのは、待たされるのがとても嫌いです。どうでもいいことなら別ですが、自分がいま欲しいと思った情報は、いまでなければ意味がないのです。そして違う色でも購入してしまった心理は、購買意欲の高い“いま”勧められたからです」

なるほど。思い返してみると、あのときは違う色でも何としてでも欲しくなっていた。逆に返信がなく放置されたときは、購買意欲は完全に失せていた。

「お客様が求めているときに、求めている情報をすぐに提供する。これは営業としてとても大切なことです」

突然明かされた営業として大切なことに、美沙の思考はついていけなかった。坂井の言葉を咀嚼するようにもう一度頭で反芻する。すると、黒々とした不吉な煙が胸の奥底からじわりじわりと浮上し美沙の脳裏に到達した。直後、美沙は「ハッ」と吸い込んだ息を吐き出せぬまま、口を半開きにしたまま固まってしまった。

「サニーの神崎部長から昨晩催促の電話がありました」

「申し訳ありません! 後で送付しようと思い、すっかり忘れていました!」

 美沙は深々と頭を下げ、息つく間もなく一気にしゃべった。

坂井から美沙が依頼のメールを受けたのは、五日前だった。『サニーの神崎部長から仕様書を送付するよう依頼がありましたので、浅井さんから送付する旨伝えました。早急に処置してください』。美沙はメールを見るなり、『承知しました。早急に処置いたします』と返信をしていた。しかし、直後村中に話しかけられ業務の説明に入った美沙は、すっかりそのことを忘れてしまった。これでは「あのタイミングで電話が鳴ったから忘れてしまった」とミスの言い訳をしていた村中とまったく同じではないか。美沙は下げた頭を上げられないでいた。

「浅井さん、頭を上げてください。しっかり頭を上げて聞いてください」

 その言葉に頭を上げるも、坂井と視線をうまく合わせることが美沙はできなかった。

「神崎部長は時間にはルーズですが、仕事のレスポンスの速さはピカイチです。かつ、依頼した書類の仕上がりはいつも完璧です。浅井さんが時間厳守を信頼の基準においているように、神崎部長はレスポンスの速さに信頼の基準をおいているのかもしれません。だとしたら、いくら浅井さんが有名店の手土産を持っていったとしても、もう信頼はされないかもしれませんね」

 坂井の放つ言葉のひとつひとつが弓矢のように美沙の胸を突き刺し、大きな傷を伴わせた。いままで偉そうに村中のミスを批判していた自分が恥ずかしいやら情けないやら……弁解の余地もなく、美沙は口を結んだまま両膝の上で固く結んだ自身の両手に視線を落とした。

「とはいえ、書類は急ぎではなかったようで、昨晩こちらからメール添付で送付をしたら問題はないとおっしゃってくれました。

神崎部長から浅井さんに伝言を預かっています」

 『問題がない』という言葉に安堵しかけた美沙だが『伝言』という言葉には嫌な予感しかしない。ふたたび美沙の胸は暗澹としていった。

「『素敵なお土産をありがとうございました』とのことでした」

 えっ? 嫌な予感ほど100%の確率で的中してきた美沙にとって、これは信じがたい言葉だった。

「先ほどの話は私の憶測でした。現実には神崎部長の信頼を浅井さんは失わずに済んだようです。浅井さんの手土産を翌日事務の女性に渡したところ、えらく感動されたようです。部署内は大盛り上がりで、自身の株も上がった、などと嬉しそうに話していました」

 信じがたい言葉の連打に美沙は胸がいっぱいになった。込み上げてくる思いを言葉にしようも、やはり口を開くことができない。ギュッと口を結んだまま、美沙は『伝言』を噛み締めた。そしてあらためて自身の反省を口にした。

「坂井部長、フォローしてくださってありがとうございました。これからはお客様の求めたタイミングを逃さないように気をつけます。営業として一番大切なことですからね」

「それは違います」

「は?」思わず間の抜けた声が出た。先ほど坂井が言っていたはずのことだが。

「それは営業として大切なことではありますが、一番大切なことではありません」

「ではやっぱり……人間性?」

「人間性といっても、いい人の基準は人それぞれですからね」

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chiponyo 公開されました!|[今なら無料!]キラキラワードに騙されるな! 私たちはやる気をなくす言葉に囲まれている 4年以上前 replyretweetfavorite