初めて書いた原稿の評価は……?
簡単な打ち合わせでこうしてレギュラーページの確保が決まったわけだが、日経BPの大澤さんは「今から空いてる?」に続き、彼はこう言った。
「今からアパレルメーカーの社長の取材に行くんだけど一緒に来ない? 取材のやり方とか教えてあげるよ」
もちろん断る理由もないし、何せヒマなのでついていくことにした。大澤さんは自分が興味のあることであれば、徹底的にくらいつくタイプのようで、社長の時間など気にせず、ひたすら話を聞き続ける。心底社長の話に好奇心があるようで、社長も「オッ、こんな若者がワシの会社にここまで興味もってくれるか」とばかりに、相好を崩してマシンガンのように喋りまくるのである。
結局、1時間の予定だった取材は3時間も経過していた。この間、私はほとんど喋っていない。さすがに外は真っ暗になっており、腹も減っていたのだがついに無職生活から脱出できることに私は高揚感を覚え、その日は大好きな「てんや」に行き、天丼に穴子天ぷらをトッピングするという豪華な食事をしたのだった。
初めて書いた原稿は大澤さんから「それにしてもひどい文章だね」と呆れられるほどひどい文章だったようだ。「実は……といった驚きがないじゃん!」「なんでこんな唐突な書き出しなんだよ!」などと言われながらも「やっぱ業界にすぐ話がつくのはすごいね…」と感心はされた。
自分の文章がまったく原型をとどめないながらも、最終的に「ソフトガイドCM」と「クリエイターズファイル」が紙になった時は嬉しさのあまり、また「てんや」へ行ってしまった。
この頃になると私がヒマそうにしているということは、多くの人に知られるようになっており、日経エンタテインメント! の仕事の直後から仕事がいくつか舞い込むようになる。元からの知り合いが「あっ、あいつヒマそうだな。博報堂で働いていたくらいだから、常識はあるだろう」と電話番のバイトや雑誌編集部での「ラーメン特集で店の電話番号が間違えていないかの二重チェック作業」などをやっていた。これらは大体日当6000~8000円だった。
というわけなので、別にこの段階ではライター一本で食っていこう、とはあまり考えておらず、「原稿も時々書くアルバイトの男」といった認識でいた。だが、フリーライターになる決定的な電話がまたかかることになる。7月下旬のある日、「久しぶりだな」と電話があった。
小渕優子を探して
博報堂の時、同じ部署にいた嶋浩一郎さん(現・博報堂ケトル共同CEO)からだった。彼は当時朝日新聞社に出向しており、「セブン」という若者向けタブロイド紙発行の準備にとりかかっていた。
博報堂在職中は嶋さんと喋ったことはほぼなく、「なんだか毎週髪の毛の色を変えるヘンな人だな」くらいの認識しかなかったが、突然の電話は「も、もしや仕事か!!!」と気分が高まった。
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