人は「ごはんを食べる」だけでは満足できない動物
物心がついた頃(幼稚園の頃)から、私は本の虫です。
ライフネット生命(※現在著者が会長を務める)を立ち上げて多忙になってからも、平均すると、おそらく週に3~4冊は読んでいると思います。もっともたくさん本を読んでいた頃は、毎週10冊以上読んでいました。
私にとって、就寝前に1時間本を読むことは、歯磨きをするのと同じくらい、当たり前の習慣になっています。
どうして私が本を読むのかといえば、
「おもしろいから」
としか、答えようがありません。良質な本に出会うと、私は心が沸き立ちます。書評ブログを書き始めたのも、きっかけはライフネット生命のスタッフのすすめですが、「この本のおもしろさを、人にしゃべらずにはいられない!」という気持ちも働いています。
中国古代の政治論集『管子』には、「衣食足りて礼節を知る」という趣旨の言葉が書かれています。
衣服と食べ物(と寝ぐら)は生活する上での根本ですから、人間が第一に考えるのは、「どうしたら、ごはんを食べていけるか」ということです。
しかし、人間には他の動物と違って、大きな頭がある。だから、ごはんを食べるだけでは満足できません。聖書にあるように、「人はパンのみにて生くるものにあらず」です。
「異性の腕の中」にいるより楽しいこと
衣食が満たされたら、心にもゆとりができます。そして、パン以外のものを求め始める。そのひとつが「知的好奇心」です。
アラブには、次のようなことわざがあります。
「(人生の)楽しみは、馬の背の上、本の中、そして女の腕の中」
女性と時間をともにするより、本のほうが、楽しい。このことわざは、言い得て妙です。読書の楽しさを伝える至言だと思います。
砂漠のアラブの戦士にとって、馬は生活の手段であるばかりではなく、誇りと栄誉の象徴です。ですから、馬の背の上に座ること(馬を上手に扱うこと)は、何よりも楽しい。そして2番目が「本」で、3番目が「女性」。「本」が「女性」よりも上位にくるのは、本が知的好奇心を満たしてくれるからでしょう。
知的好奇心を満たすことは、人生の醍醐味である。そう考えたアラブ人に、私も共感を覚えます。キリスト教の長期間にわたる焚書(異教の思想を弾圧するために書物を焼き捨てること)にもかかわらず、ギリシャやローマの古典が生き残ったのは、イスラーム世界で大切に保存されていたからです。
つまり、アラブ人が異常な「本好き」だったからなのです。
私にとって読書は、食卓に並ぶ「おいしいおかず」のようなイメージです。
パンやお米だけでも、最低限の食欲を満たすことはできます。しかし、食卓に「おいしいおかず」が並んだとき、食事の時間は、もっと豊かで、もっと楽しい時間に変わります。
本がなくても死ぬことはありません。でも、本がなかったら、人生を楽しむことはできないでしょう。少なくとも私はそう思います。
「価値観の押しつけ」ほどつまらないものはない
読書好きの私が、どのように本と向き合っているのか。私が思う「本のおもしろさ」とは何か……。本書は、小さい頃から本と一緒に育ってきた、私なりの個人的な読書論です。
幼少期から今日までを振り返りながら、「読書のおもしろさ」や「読書の有用性」について、ひも解いてみようと思います。
といっても、「本はかくあるべきもの!」「本はこう読め!」などと押し付けるつもりは毛頭ありません。およそ価値観の押しつけほどつまらないものはありません。
本の読み方には個性があっていいし、その個性もまた、読書の楽しみ方のひとつだと思うからです。
みなさんに少しでも「本のおもしろさ」が伝われば、著者としてこれほど嬉しいことはありません。
次回【花の名を一つ知れば、世界の謎が一つ消える】は6/10(水)更新予定です。