日本建築論

岡本太郎から考える/硬直した伝統論を解体する思考:第6章(1)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。


○ 縄文土器の発見

伝統を煽りに煽った『新建築』の1950年代、その頂点となったのは、白井晟一が1956年に発表した論文「縄文的なるもの」だった。これは丹下健三に対抗する軸として、編集者の川添登が仕掛けた言説でもある。しかし、縄文は建築界が初めて注目した概念ではない。アーティストの岡本太郎が、1952年に「縄文土器論—四次元との対話」をすでに執筆し、大きな反響を呼んでいた。この論文は以下のような書き出しで始まる。

 「縄文土器の荒々しい、不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰でもがドキッとする。なかんずく爛熟した 中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである」(岡本太郎『伝統との対決』ちくま学芸文庫、2011年)。そして「通常考えられている和かで優美な日本の伝統とは全くの反対物である」という。彼によれば、農耕生活の弥生式土器は平面性が強く、シンメトリカルな形式主義に陥っているのに対し、狩猟期の縄文式土器は荒々しい破調のダイナミズムをもち、空間性を内包している。

 今回はすぐれた書き手としての岡本をとりあげよう。彼は、この論文を『日本の伝統』(1956年)に再録した際、自ら土器を撮影した写真を用いた。それだけ、思い入れのある<発見>だったわけだ。同書では、観念的な評論家の伝統論を批判し、「われわれが縄文土器のあの原始的なたくましさ、純粋さにふれ、今日瞬間瞬間に失いつつある人間の根源的な情熱を呼びさまし、とりかえすならば、新しい日本の伝統がより豪快不敵な表情をもって受けつがれるのです」という。「近世日本の小ざかしい、平板な情緒主義」は弱々しく、がっかりしたが、縄文土器に触れたとき、「からだじゅうがひっかきまわされるような気がしました。やがてなんともいえない快感が血管の中をかけめぐり、モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えたのです」と述べている。

これは、いわば一般的な伝統論に対するアンチの書だった。そして弥生的なものよりも、縄文的なものこそが、立体的な高層建築が立ちならぶ現代都市にふさわしいダイナミックな感覚をもつと指摘している。ここで岡本は、保守的な伝統論を徹底的に批判して言う。私は「伝統」を、古い形骸をうち破ることによって、かえってその内容—人間の生命力と可能性を強烈にうちひらき、展開させる、その原動力と考えたい。この言葉を極めて革命的な意味でつかうのです」(『日本の伝統』光文社、2005年)。良識派が思わず眉をひそめるような、本書の有名な言葉「法隆寺は焼けてけっこう」、「自分が法隆寺になればよいのです」も、彼ならではの刺激的なプロパガンダである。

 岡本は1929年にフランスに渡り、10年間パリに滞在した。現地ではピカソやシュルレアリスムの影響を受けた後、1938年、マルセル・モースのもとで民族学を学ぶ。こうして異国において、正統な美術史やヨーロッパ中心主義とは異なる美の考えを育んだ。そして「戦争直前に帰国し、期待して日本の過去と現実にぶつかった。しかしすべてが卑小で、暗く、うすっぺらな、趣味的なのにがっかり」したところで、ついに縄文式土器に遭遇したのである(「伝統とは何か」/『伝統との対決』)。


○ 美術と建築のつながり

建築界が岡本の言説を知らなかったことはありえないだろう。例えば、『新建築』では、1956年6月号に岡本太郎が寄稿していたし、同年11月号では、彼の著作『日本の伝統』に対する書評が掲載されていた。神代雄一郎(こうじろ・ゆういちろう)は、この段階で、伝統論が歴史家や批評家から完全に作家の手中に落ちたと指摘している。時期としては、白井のテキストの前後だ。

 建築史家の伊藤延男の論考「伝統論と伝統」は、縄文と弥生はそれほど違わないから、岡本と丹下の縄文評価が過大ではないかと述べている(『新建築』1956年12月号)。また創造のインスピレーションとして言うのはかまわないが、江戸以降の民家を原始時代からつなぐには慎重であるべきだという。なお、伊藤は、伝統論が興隆する背景として、合理的なモダニズムの不安感から、人間的な生命感の解放として、でたらめな、荒々しい要素を歴史に求めること、戦後はじめて民衆のエネルギーが放出し、民衆の伝統を考える状況が生まれたことを指摘している。

 建築界の岡本とのつながりはこれだけではない。岡本は1950年代から60年代にかけて、建築家との共同プロジェクトを幾つか手がけている。例えば、丹下健三の旧東京都庁舎(1957)では岡本が陶板の壁画を制作していた。1953年、国際デザインコミッティー(現在の日本デザインコミッティー)の創設メンバーとして、丹下や清家清らとともに岡本が名を連ねている。彼の自邸(1954年)は、坂倉準三(担当は村田豊)が設計した。また彼の母、かの子の文学碑では丹下が台座をデザインし、1964年の岡本太郎展の会場構成も丹下研究室が担当している。黒川紀章の寒河江市庁舎(1967年)では、岡本の「光る彫刻・生誕」が中央の吹抜けに吊り下げられた。

ともあれ、当時の主要な建築家は、彼と知り合いだった。さらに、岡本自身も怪獣のような建築、マミ・フラワー会館(1968)を設計している。このプロジェクトでは、黒川らが構造やデザインのアドバイスをしていた(江川拓未「マミ・フラワー会館に見る、岡本太郎の建築への接近と実践」2012年度修士論文)。

 近年、西澤立衛と内藤礼が共同した豊島(てしま)美術館など、現代アートと建築の融合が注目されているが、20世紀の半ばにもこうした傾向が発生した。前述した丹下建築における岡本の壁画を契機として、両分野のコラボレーションが試みられている。例えば、香川県庁舎の猪熊弦一郎の壁画、草月会館屋上の勅使河原蒼風のオブジェ、そして慶応大学萬來舎の谷口吉郎とイサム・ノグチなどだ。

 こうした仕事に対し、神代雄一郎は「冷たい機能主義建築が人間性回復のために、アクセサリーのように藝術を取り入れはじめた傾向は、ついに建築家と芸術家が一つの芸術作品(建築)となかで対決しあい、強い迫力と効果をつくりあげる程に成長している」と評価した(『現代建築と芸術』彰国社、1958年)。かくいう神代自身も、彫刻家の流政之と、1963年に讃岐民具連を設立し、香川県の工芸から新しい息吹を生む運動を興している。流は、東京文化会館の内壁や、ニューヨーク世界博(1964-65)の日本館の外壁を手がけて以来、前川国男の事務所と関係を続けていた。芦原義信の設計による香川県立図書館の前庭の石垣では、流が職人の集団を指導している。

 岡本も、建築界において伝統論が話題になっていることを認識していた。『建築文化』に寄稿した「伝統と現代造形」(1957)では、それに触れて、桂離宮や伊勢神宮など海外の目で発見されてきたが、うかつにジャポニズム?にのるなと批判している(『伝統との対決』)。そして伝統はあくまでも形式ではなく、民族の生命力の発現であるという。

 彼の建築観を紹介しよう。伊勢神宮は、「かつて「大日本帝国」の精神的支柱だった」が、必ずしも神聖だとは思わない(「伝統とは何か」1963年/『伝統との対決』)。訪れてもほとんど建築を見ることができず、触れさせないことで保とうとする神聖さには、「官僚的な形式主義」を感じるからだ。また「伝統論争」(1956年)の対談では、「桂離宮なんてあんまり下らないんで全然書かなかった」と述べている(『伝統との対決』)。建築は庭よりましだとしながら、とくに「石の打ち方の愚劣さ」を指摘するが、写真に撮ると、よく見えるのがしょうがないという。ちなみに、1953年にアメリカから帰国した石元泰博は、吉村順三に同行して、すぐに桂離宮を撮影していた。そしてグロピウスや丹下との共著によって、モダニズム的な視点から切りとった斬新なイメージを提示する『桂 KASURA 日本建築における伝統と創造』を刊行したのは、1960年である。


○日本の地方と民衆

前回とりあげた建築界における「民衆」の問題は、岡本太郎も共有していた。彼はこう述べている。「民衆は生きている。私は地方を廻り歩いて、かれらが自分では知らずに生活の底にひめているエネルギーに驚嘆する。いわゆる日本的と称する、ひ弱な、しぶい、繊細なものの正反対。重厚なたくましさや原色のはげしさが生きつづけている。それは日本の土にぶつかることによって、はじめて、実体、手ごたえとして感じとるものなのだ」(「お答えいたします」1963年/岡本太郎『日本の最深部へ』ちくま学芸文庫、2011年)。生のエネルギーは縄文の概念とも連動するものだ。

 注目すべきは、地方という場所に意識が向けられていることである。すなわち、京都の古美術や古建築だけが特別に賞賛されていることへの反抗と言えるだろう。実際、岡本は『日本再発見』(1958年)や『沖縄文化論』(1972年)などの著作において、日本各地を訪れたフィールドワークの成果を発表していた。

 岡本は『芸術新潮』の連載をまとめた『日本再発見—芸術風土記』(新潮社、1958年)において、秋田、長崎、京都、出雲、岩手、大阪、四国などを訪れ、旅の印象を綴っている。巻頭の写真を眺めると、「角巻きの女」、「かまくらを作る少女」、「なまはげの若者」など、とくに秋田のイメージが鮮烈だ。

 同書では、伝統か近代主義か、という二項対立に対し、地方の現実を叩き付けたいと主張している。そして「私はひそかに期待し、探し求めていた民族独自の明朗で逞しい美観、民衆のエネルギーを発見することが出来た」。いわゆる日本美、貴族文化とは異質なものであり、「はるかに重厚で、泥くさく、生活的なもの。ここには伝説的な日本的器用さはない」。なお、京都については「昔の夢に封印された世界」であり、「「古都の魔術」はわれわれ旅行者じゃなくて、この町の人たちをチッソクさせている。彼らこそ解きはなたれなければならない」と論じている。

 建築界でも、1960年代から70年代にかけて、デザインサーヴェイと呼ばれる運動が起きていた。法政大学の宮脇檀ゼミナール(馬籠、金比羅など)や明治大学の神代研究室(女木島、沖の島など)をはじめとする建築学科の教員と学生が、地方に出かけ、集落全体をまるごと実測し、図面化するものである。高度経済成長期において日本各地に残されていた空間構造が研究の対象となったのだ。

 こうした背景としては、バーナード・ルドフスキーが、1964年にニューヨーク近代美術館で企画した展覧会が書籍化された『建築家なしの建築』(1964年)も挙げられるだろう。この本は、驚くべき形態を伴う、世界各地のバナキュラーな建築を紹介したもので、世界の画一化に向かうモダニズムのオルタナティブとして大きな反響を巻き起こした。

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五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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