また元の通りだと彼女は感じていた。
しかし、それも束の間だった。変化は既に約束されている。リチャードは、一年間のサバティカルを終えて、ニューヨークの大学に戻っているが、二週間と置かずパリを訪れては、洋子との結婚の準備を進めたがった。
洋子は、リチャードに対して、曖昧な態度を取っていた。そしてそれが、彼女の自己嫌悪を募らせていた。
リチャードは、コロンビア大学時代からの友人で、一年前に、丁度今パリにいると連絡を貰って再会するまで、自分が彼と恋愛関係になることなど想像だにしていなかった。大学時代は、それぞれのパートナーもよく知っていた。友人として特に親しいわけでもなかったが、だからこそ、その関係には可塑性があったとも言えた。今更つきあおうと言い出しても、噴き出すような間柄ではなかった。
何が変わったのかと言えば、お互いの年齢と言うより他はなかった。
若い人間の心には、肉体との境界のあたりに、頗る可燃性の高い部分がある。ある時、何かの拍子にその一端に火がつくと、それが燎原の如く広がって、手が着けられなくなってしまう。その火に、相手の心のやはり燃えやすい部分が焼かれてしまうと、二人はただ、苦しさから逃れるためだけでも互いを求め合わなければならない。
恋がもし、そうしたものであるならば、土台、長続きするはずはなかった。その火は、どこかでもっと、穏やかに続く熱へと転じなければならない。
愛とはだから、若い人間にとっては、一種の弛緩した恋でしかない。その先に見据えられた結婚には、どれほどの祝福が満ちていようと、一握りの諦念が混ざり込まずにはいられない。
しかし、洋子がリチャードと再会したのは、年齢的に、もうそろそろ結婚すべきだと感じていた時だった。
リベラルな通信社の女性記者の一人として、彼女は、子供を持つ人生と、子供を持たない人生とを、どちらもあり得ることとして長らく考えてきた挙げ句、四十歳という年齢を目前にして、やはり子供を生みたいという心境に傾いていた。
彼女の肉体と心との間には、気がつけば、年齢相応の自由な隙間が出来ていた。
必ずしも火を必要とせずに、彼女は彼との未来を穏やかに想像して、そのからだにぬくもりを感じることが出来た。重要なのは、彼と生活を共にすることであり、彼が父親として相応しい人間であるかどうかだった。
リチャードは、必ずしも“クソ真面目”というわけでもない合理的な考え方の人間で、その感情生活には、うらやましいほどに複雑なところがなかった。教養はあるが、それ以上に芸術を理解するわけではなく、またそれを隠さないところに好感が持てた。
愛するという点では、常に洋子に先んじていて、育ちの悪くない情熱もあった。恐らく人生の中で、人からハンサムと褒められた経験はあまり多くはないだろうが、背は低くなく、ジム通いで体型もよく維持していた。
無論、どれほど人間的に信頼し、尊敬の念を抱いていようと、肉体的に受け容れられるかどうかは、また別の問題だった。人によっては、友情と愛情との違いとは、つまるところそれだけだと断ずることもあるだろう。
ところで、二人の場合は、幸いにしてすんなりと互いを受け容れ合った。リチャードは「こんな美人を抱ける」ということを憎めない正直さで喜び、洋子もまた、些か保守的だとは感じつつも、「十分」と言って良い快楽に至っていた。
彼女の人生は、滞りなく前進していた。そして蒔野は、その彼女の、もうあまり燃えやすい部分は残っていなかったはずの心の中で、唐突に燃え立ち始め、勢いを増してゆく火だった。
リチャードは、ようやくバグダッド赴任を終えた洋子を気づかいつつ、「待たされる身」の辛さを冗談めかして嘆いてみせ、まるでつきあい始めの時期のように彼女を求めた。洋子はそれが、結婚の準備に対して、自分が積極的でないことの不安の裏返しであることに気づいていた。リチャードは、この期に及んで、自分は愛されているのだという確証を求めねばならないことに当惑していた。そして、すべては所謂マリッジブルーのせいなのだと自分にも洋子にも言い聞かせていた。
必ずしも彼への同情と義務感からだけでなく、洋子はその求めに応じ、彼が避妊を拒むのも躊躇いつつ受け容れた。
しかし、リチャードがニューヨークに帰って独りになり、蒔野のことを考え出すと、洋子は酷く罪悪感を覚えた。一旦は連絡を取ることを止めようかとさえ思いつめていた、そのまだ、ほとんど何も始まっていない関係のために。
そして、彼に「長い長いメール」を書き、再会の約束を確認してからは、リチャードと一度も寝ていなかった。
*
蒔野は、午後の遅い時間にパリに到着して、翌日、練習場所を貸してもらう手はずのエコール・ノルマルの近くのホテルにチェックインした。シャワーを浴びて一休みし、溜まっていた仕事のメールに返事を書いて、八時に洋子が予約したレストランに向かった。マドレーヌ駅から、歩いて五分ほどの場所だった。
少し遅れて店に着くと、洋子が窓辺のテーブルで、店員と親しげに談笑している姿が見えた。間接照明のミニマルな内装で、ガラス製の棚に無数のワインボトルが横倒しに陳列されている。それが、オイスター・ホワイトとダーク・ブラウンを基調にした空間の、瀟洒なアクセントになっている。蒔野を見つけると、洋子は笑顔で手を振った。
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