第9回】 僕の妄想と嬉しき誤算

NASAで働く日本人技術者、小野雅裕が未来に描いていたサクセスストーリー。けれど実際はそううまくはいかないもの。1年遅れの新婚生活、夢を追う工学博士の想像を超える、愉快で愛らしい妻エリコさんとの日々を描いたエッセイ!『宇宙人生』《妻編》第2回をお届けしますーー

 留学を終えて日本に帰るエリコを乗せた飛行機が、初夏の爽やかな空に向けて飛び立つのを、僕はボストンの空港の屋上から見ていた。寂しかった。でも、極めて楽天的な僕の思考回路には、早くもおめでたい妄想が駆け巡っていた。

 僕はまず、幼い頃からの夢だったNASA JPLへの就職をビシッと決める。次にMITの博士課程を涼しい顔で卒業する。そしてデロリアンのような車を買う。友人たちの大歓声と七色のテープに見送られ、東海岸のボストンを出発する。プレーリーの地平線まで続くトウモロコシ畑の中や、ロッキー山脈の赤茶けた岩山を車で走って大陸を横断し、太陽燦燦たるロサンゼルスに着く。居を構え、仕事に成功し、若くして異例の出世を遂げる。

 そして、日本にいるエリコに、80年代の青春ドラマのようなクサい手紙を書く。

「俺と俺の夢の伴侶になってくれ」と。

 その手紙には、東京からロサンゼルスまでの片道航空券が同封されている。いよいよ彼女の渡米の日、僕はデロリアンで空港へ迎えに行き、彼女を乗せた飛行機は太平洋に沈む夕日を背景にロサンゼルスに着陸する。そしてターミナルで、歓喜の涙に濡れながら、熱い抱擁を交わす…

 …以上の妄想は、一行目の「JPLへの就職をビシッと決める」が失敗した時点で全ておじゃんになった。紆余曲折の末に4月から日本で就職することになったのだが、幸運なことに、日本帰国の前にJPLで2ヶ月間インターンをする機会をもらうことが出来た。そこで死ぬほど頑張って結果を出し…という熱血系エピソードは、暑苦しくなるのでここでは控えておこう。

 で、インターンが終わり、デロリアンではなくマレーシア航空のエコノミークラスに乗って僕は日本へ帰った。成田にはエリコが迎えに来てくれていた。彼女は喜怒哀楽が非常に大げさである。僕がスーツケースを引きずってゲートを出ると、彼女は子犬のようにピョンピョンと飛び跳ねて喜んで、待ちきれずに立ち入り禁止の赤い線を越えて逆流し、僕に飛びついてきた。

 僕は素直に嬉しかった。でも、妄想の中では僕が彼女を迎えるはずだったのに、立場が逆になってしまって、なんだかおかしいな、という気持ちもあった。

 そんなわけで1年遅れの新婚生活が始まった。騒がしいことこの上ない新婚生活だった。毎朝7時、「コーヒー、コーヒー、コーヒー!」という叫び声で起こされる。エリコは欲しいもの(主に食べ物・飲み物)を3度繰り返して唱える習性がある。お茶を淹れて欲しいときは「お茶、お茶、お茶!」、柿をむいて欲しいときは「柿、柿、柿!」という具合である。夫を流れ星と勘違いしているらしい。でも流れ星が願いを叶えてくれたためしなんて一度もないから、よっぽど僕のほうが優れている。

 とはいえ流れ星と張り合っても仕方ないから、僕は文句も言わずに毎朝カフェラテを淹れる。女王陛下の舌はお子ちゃまなので、ミルクたっぷり、エスプレッソを極めて少なめにすると、陛下はいとお喜びになる。そしてベラベラゲラゲラと喋りながら悠長に朝食を食べ、ふと時計をみると遅刻寸前。だがスッピンの顔を民に見せるわけにはいかない。泣きそうになりながら化粧をし、駅までダッシュしていく。

 彼女の帰りはたいてい深夜で、時間が自由な研究者の僕の方が、たいてい帰宅が早かった。彼女が帰ってくると、まず「ガオーッ!」と叫ぶ。小野家ではそれが「ただいま」の代わりであり、また一日働いて溜まった疲れの発散法でもあるのだ。そしてバケツいっぱいの水をぶちまけるように、その日にあったこと、思ったことを一気に喋る。喋り喋って喋りまくり、バケツがからっぽになったら、スッキリして風呂に入り、グウと寝る。

 そして翌朝はまた「コーヒー、コーヒー、コーヒー!」で始まり、懲りずに喋りながら悠長に朝食を食べ、遅刻寸前で駅までダッシュするのだ。そんな毎日だった。

 小野家の食卓は「犬食い」が基本だ。皿洗いの手間を減らすため、おかずを小皿に取り分けず、二人で大皿から直接食う。犬二匹がひとつの皿に首を突っ込んで餌を食う要領だ。そして二匹とも極めて食い意地が張っている。国境を接する国が資源を巡って争うように、僕たちの間でもどっちが多く食べたなどという理由で紛争が頻発する。

 その一連の紛争が頂点に達したのが、バンコクにおいて勃発した、エビの配分を巡る争いである。夏休みのタイ旅行中、料理の名前は忘れたが、僕たちはエビの入ったヌードルスープを食していた。極めて美味だった。いつもの癖でドンブリから直接犬食いしていると、エリコは「何でも半分ずつ分け合う」という掟を破り、明らかに僕より多くの数のエビを食べた。しかるに彼女は頑として同じ数しか食べていないと言い張る。

 でも工学博士の目は欺けない。残されたエビのしっぽの数を数えたら、僕の皿には8個しかないのに、彼女の皿には10個もあるのだ!これこそ動かぬ証拠!

 しかし、証拠を突きつけられたエリコは、とっさにしっぽをひとつ箸でつまみあげて僕の皿にポイと置き、「ほら平等!」とヌケヌケと言って、ニコリと笑った。完敗である。

 そんな騒がしい新婚生活も半年を過ぎた頃、JPLからある知らせが届いた。インターンの頃の頑張りが認められたお陰で、採用のオファーが来たのだ。子供の頃からの夢の場所への扉が、思いがけず開いた。

 しかし、当時は僕もエリコも、日本での仕事がとても充実していたし、長い遠距離婚のあとにやっと二人で騒がしく毎日を過ごせる楽しさをかみしめていたから、正直、迷った。JPLに行けばまた、いつ終わると知れない遠距離婚に逆戻りだ。僕はまだ、子供の頃の夢を叶えに行くという高揚感があるからいい。でも、ただ残される側の気持ちはどんなものだろう。

 僕はエリコに素直に相談した。すると彼女はためらいなくこういった。

「行っておいでよ。応援するから。」

 この人と結婚したのは正しかった。僕はこのとき、そうしみじみと感じた。

 かくして、僕の妄想が見事な復活を遂げた。カッコいい台詞を言う役が、僕ではなく妻になってしまったのが若干の誤算ではあったが。

 アメリカの採用オファーにはいろいろと特典がついてくるケースが多い。JPLも、日本からアメリカへの引越し代を全て出してくれたり、移住後2ヶ月はホテル暮らしをさせてくれ、レンタカーも付けてくれるなど、まさに最初は王様気分である。特典のひとつに「ハウス・ハンティング・トリップ」というものがあった。移住前に、家探しをするために、ロサンゼルス5泊の旅を出してくれるのだ。しかも妻の分も出してくれる。これにお調子者のエリコは狂喜乱舞した。

 そんなわけで、年末年始に僕たちはロサンゼルスに行った。そんな時期に不動産屋なんて開いているわけがない。だから本来の目的の家探しは大して出来なかった。代わりに、買い物大好きのエリコ様の物欲を満たすため、毎日あちらこちらのショッピングモールやらアウトレットやらに連れて行った。そうしてハウス・ハンティング・トリップは完全にショッピング・トリップと化したのだが、実はそれは僕の秘密の作戦でもあった。そうやってエリコ様をロサンゼルス大好きにさせてしまえば、いずれ近い将来に移住してくれるだろうという目算だった。その作戦は、ほぼ成功したかに思われた。

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宇宙人生—NASAで働く日本人技術者の挑戦

小野雅裕 /小山宙哉

世界で唯一、太陽系の全ての惑星に探査機を送り込んだ機関があります。それは、NASAのJPL(ジェット推進研究所)という組織。そんな宇宙探査の歴史を切り拓いたともいえるJPLで働く技術者・小野雅裕さんが目指すものとはーー。『宇宙兄弟』ス...もっと読む

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