chapter6-1 全てを失って

僕は人生の絶頂から、突如としてどん底に叩き落とされた。恋愛工学が創り出した眩いばかりの成功の光は、知らず知らずの内に、暗い影も創っていた。短期間の内に、人の何十倍も恋愛をしてきたことが、僕の人生に大きな歪を生み出していたのだ。

 雑木林の中を走る伊豆急行の車内から、たびたび覗く海を眺めていた。青いというよりも濃紺に煮詰められたような海だ。車両には老夫婦が何組か乗っているだけだった。昨日は、熱海の安い温泉宿で一泊した。今日は下田に寄って、そのあとバスに乗って西伊豆のほうに行く予定だった。僕は黒のレザージャケットを着て、古びたジーンズを履き、小さな旅行カバンを持っていた。

 僕は28歳で、すべてを失っていた。

 人生の歯車が狂いはじめてからのことを、ひとつずつ思い出す。


 青木国際特許事務所をクビになってから、一度だけ、英里香とデートした。

 まだ、自分の状況がよく飲み込めていなかったころだ。

 僕は約束の時間にすこし遅れて、目黒にあるビストロに到着した。

 失業者になってみると、英里香の華美な美しさは、僕の心には棘々しかった。

 もともと英里香は僕より稼いでいて、おごってもらうことも多かった。だから、金がかかるというわけではなかった。しかし、これからのことを思うと、こうしたちょっとしたディナーも負担に思えてきた。英里香との会話も、料理もまったく楽しめなかった。失業したことを打ち明けるタイミングを窺っていたからだ。

「最近、何かあった? 元気ないよ」

「いや、なんでもないんだ」

 僕はもう話したくない、というような口調で言った。

「ちょっと体調が悪いみたいなんだ。明日は朝から重要なミーティングがあるから、今日はこれで帰るよ」

 英里香は僕の恋人だ。だったら、僕の状況を正直に打ち明けて、いっしょにがんばっていくべきじゃないのか? それが恋人同士というものだろう。しかし、考えれば考えるほど、彼女はそんな僕を支えてくれるようなタイプには思えなかった。僕はこんな状況で、何もかもを話そうという気が起きない彼女に対して、想いが冷めたような気がした。あるいは、そう思い込むことによって、傷つくことを避けたかったのかもしれない。

 いずれにしても、僕は自分から別れることにした。

 六本木の自宅に帰って、シャワーを浴びたあと、僕は一言だけ彼女にメッセージを送った。

[もう別れよう。英里香には僕なんかよりもっと相応しい人がいるよ。]

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ぼくは愛を証明しようと思う。

藤沢数希

恋人に捨てられ、気になる女性には見向きもされず、非モテな人生をおくる主人公のわたなべ。ある日、恋愛工学と出会い、彼の人生は大きく動き出す……。 ファイナンス、経済学、エネルギー政策に関する著作をもち、リスク・マネジ...もっと読む

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ykonda https://t.co/pgBwdDgdMu たかが仕事をクビになったぐらいで人生のどん底に叩き落とされたならどれだけ幸せな人生を送っていたんだ? 2年以上前 replyretweetfavorite