何よりもまず、名前があ行ではじまる人々に。
それから、か行で、さ行で以下同文。
(『道化師の蝶』)
本のページを開く。と、目の前に文字の連なりがある。それを目で追う、その行為自体が、なんだか楽しい。
ああ、じぶんはいま、言葉を味わっている。大げさにいえば、言語芸術に触れている、という歓びが内側からふつふつと湧いてくる。
円城塔作品に触れるとは、そんな体験をすることだ。小説とは、まずもって文章を読む興味に支えられているのだと、改めて教えてくれる。
ただし。小説の本来のかたちを感じさせてくれるのはたしかだけれど、ストーリーを追いづらいという難点もある。読んでいて、話がどこへ向かうか見当もつかず、途方に暮れてしまうことも。それで、「難解な作品」とレッテルを貼られがちだったりする。
おもしろい。でも、とっつきにくい。そのあたりを、作家本人はどう考えているか。
円城作品はいつも、純粋に文章を味わえる小説で、じっくり向き合って読んでいると、不思議な恍惚さえ襲ってきます。たくさんの人がこの体験をできたらいいのにと夢想しますが、書いている側としてはどうおもわれますか。すこしでも多くの読者に届けたい、といったおもいは強いですか?
むやみに読者の数を意識することはないですね。ふだん本を読まない人は世に多いでしょう。それで生きていけるのだから、それはそれでまったく問題はありません。で、ふだん読むことをしない人が、いきなりこういう僕の作品のようなものを読んでも、きっとおもしろくないんじゃないか。それなら、もっとこっちを読んだほうがいいという本はたくさんありますよ。
僕の場合、年間にたとえば20冊かそれ以上、本を読む人を想定して書いているところがありますから。何らかの前提があるうえで読んでもらおうとしているというか。ある程度ふだんから本を読む人に、「こんなバカなことしてるよ」と指さして笑ってもらえるようなところをめざしているんですよね。
円城作品には、すこし敷居があるよということですか?
まったく本を読まない人へ向けての対応を、こちらが用意できていないということですかね。それなら、もっと親切な作品がまずはありますよ、とおもってしまう。いや、もちろんだれが読んでも楽しいもののほうがいいでしょうし、そうありたいとも考えますが、うまくできないんですよ。
ある程度、読書に慣れている人へ向けて、作品を構築し投げかけているわけですね。ではそうした読者に、どんな球を投げているのか。
おもうに、伝えたいストーリーやメッセージが明確にあるというのではありませんね。というのも円城作品では、話の筋はなかなかはっきりとしませんし、オチやどんでん返しがあるわけでもない。それよりも、言葉とその羅列そのもの、そして言葉による実験や試みを分かち合いたいといったところでしょうか。
そうですね。言葉をどう使うかということは考えています。小説を書くという仕事のために用いる唯一の道具として、言葉をあれこれ駆使していくといった意識は、相当に強いです。
言葉って、たしかに何らかの力を持っているとはおもいますが、その力とは、どうも実態がよくわからないものです。それがどこにどう届くか、だれに響くかも、投げてみないとわからなかったりする。不思議でやっかいなものです。
昨年知り合った方に、泉鏡花の研究をしている米国人がいました。彼はあるとき神田の古本屋で泉鏡花の作品に触れて、ああこれは自分がやらねばとおもい、鏡花研究の道へ入ったのだそうです。彼を突き動かしたのは泉鏡花の文章の力ですが、それがなぜ彼に、それほど大きな影響を及ぼしたのかはわからない。
泉鏡花が生きていた時代に、日本で暮らしていた人に対して力を発揮するのならともかく、ずっと後年になって、米国から来た人に鏡花の文章の力が強く作用した……。そう考えると言葉の力はたしかに不思議だし、どうにも制御できないもののような気がしてきます。
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