日仏間の料理文化交流
このところパリと同じくらい東京に行く機会が増えていて、僕の大好きなこの2つの都市とその食文化の似ている点、違う点は何だろうと考えることが多くなった。
日仏間では過去50年のうちに料理においてさまざまな交流が行われ、豊かな実を結んでいる。フランスのシェフが日本料理の精緻さや繊細さ、簡潔さに初めて触れたのは、1964年の東京オリンピック時にフランス選手団とともに日本を訪問したときだと言われる。フランスに戻った彼らは、キッチンを根底から変革し始めた。当時フランスのオート・キュイジーヌのレストランは、まだ18世紀中頃のレシピとオーギュスト・エスコフィエの技法を主体とする、バターとクリームたっぷりの肉料理を出していたが、こうした新種のシェフたちと、彼らに感化されたポール・ボキューズ、アラン・シャペル、トロワグロ兄弟などが、すべてを変えた。地元で採れる旬の食材を重視し、魚介類や野菜を増やすことによって、伝統的なフランス料理から余分な脂肪をとり除き、より軽く、シンプルで、見た目にもそそるものにした。いわゆる「ヌーヴェル・キュイジーヌ」と呼ばれる料理革命だ。おなじみの話だろう?
皮肉なことに、フランス人が日本料理の叡智に気づき始めたのとちょうど同じころ、日本人もフランス、とくにパリのすべてに夢中になった。コルドン・ブルーが、日仏関係のこうした一面で大きな役割を果たしたのはまちがいない。何十年にもわたって東京校とパリ校の両方で、偉大なレストランの伝統を日本人生徒に教えてきたのだから。僕がいたときにもパリ校には日本人生徒が何人もいたし、フランス中のミシュラン星つきレストランでは多くの日本人が研修生としてはたらいていた。いつか日本に帰って、フランス料理店やブーランジェリーを開くための準備をしていたのだ。
日本人のフランスへの心酔は、フランスの花形シェフが日本に押し寄せ、パリの有名レストランの支店を次々と開いた1980年代に定着したように思われる。ボキューズやアラン・デュカスをはじめとする有名シェフが東京や大阪に、また偉大なミシェル・ブラスが北海道に支店を出すなどした。もちろん、この本でもくわしくとり上げた、熱烈な親日家のジョエル・ロブションもだ。日仏の相互交流といえば、僕の大好きなパティスリーについても語らなければ片手落ちになるだろう。パリのパティスリーに日本が与えた影響(その逆も)はとても大きく、そのことはサダハル・アオキのめざましいキャリアにもよく表れている。僕はコルドン・ブルーからの帰り、ヴォジラール通りの彼の店によく寄り道したものだ。いまでは青木さんのおかげもあって、抹茶がチョコレートやバニラと並んでマカロンやエクレアの味として定着しているし、ゆずのガナッシュがダークチョコレートに絶妙に合うことに、パリのショコラティエの多くが気づいている。僕としては本家のパリよりも、東京の街中や、高島屋や三越のデパ地下のパティスリーで見かけるケーキの方が、洗練されていて繊細でおいしそうだと思うのだ。
美しい料理を愛でる日本人のDNA
ル・コルドン・ブルーでは、食事客は「最初は目で食べる」と教えられた。料理の見た目は、少なくとも初めのうちは、味と同じくらい大切だということだ。美しい盛りつけは究極の食欲増進剤なのだ。僕は盛りつけが苦手なせいで、ル・コルドン・ブルーのシェフに高得点をつけてもらえないことも多かった。日本人の同級生の盛りつけを見て、いつも反省させられた。彼らは皿の上に食材をどう配置すべきかを、生まれながらに深いところで理解していて、あの「仔牛のブランケット」でさえ、美しく見せることができた。
日本人はなぜこのように、料理の美しさをあたりまえのように理解できるんだろう? それは、見た目も麗しい多くの料理から成る、懐石料理の伝統があるからだ。美しい料理を愛でる心は、日本人のDNAに埋めこまれているように思える。
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