第四章 再会(5)

マネージャー三谷は、蒔野の変化に気付いていたが、それが洋子のことだと確信した。今まで、誰かのことをここまで楽しそうに話す蒔野をはじめて見た三谷は……。

 木下音楽事務所の三谷は、蒔野からマドリード行きのスケジュールを変更して、往路も、経由地のパリに滞在したいと言われた時、その意味するところをすぐに察した。洋子に会うのだ、と。

 蒔野の女性関係は、マネージャーとして普段から彼の側に付き添っていても、なかなか窺い知ることが出来なかった。何かあるのだろうという雰囲気はあった。実際、コンサート終了後のサイン会などで、列に並んでいる女性と、明らかに単なるファンとは違ったやりとりをしているのに気づいたことがある。言葉数が少ない分、むしろ、事前にも事後にも意思疎通があるように見えた。勿論、ただの思い過ごしかもしれない。いずれにせよ、特定の誰かの存在を感じたことはなかった。

 しかし、洋子に関しては、わかりやすかった。彼女と出会ってからというもの、蒔野は人に会う度に、あのイェルコ・ソリッチの娘に会った、という話をした。よほどの映画ファンでなければ、すぐにピンと来ない名前のはずだが、さすがにこの業界では、《幸福の硬貨》の監督と言えば、誰でも「へぇー、」と関心を持った。そして、どんな人なのかと訊かれるのを待ち構えていたかのように、蒔野は身を乗り出した。

「RFP通信で働いてるんだけど、—いやあ、きれいな人だよね。……きれいなだけじゃなくて、フランス語とかドイツ語とか、なんか、何カ国語も喋れるんだよ。オックスフォードとコロンビアを出てて、とにかく頭が良くてさ。そういう人ならではのユーモアがあって、親切で、……」

「そんな人、いるの?」

「いたんだよ、それが。親が親だけに、芸術にも造詣が深いし、感性も豊かで。リルケをやってたんだって、大学で。」

 三谷は、蒔野が誰かについて、こんなに生き生きと話をするのを初めて見た。決して褒めすぎというわけでもなく、洋子について説明するなら、そう言うより他はなかったが、ただ、「きれい」というのとは、ちょっと違う気もしていた。—「個性的な顔立ち」というのではないだろうか。それがどういう意味なのかはうまく説明できないので、結局「きれい」でいいのかもしれないが、ただ、女同士なら、感覚的にわかるはずだった。

 そして、確かに素敵な人だが、自分とは合わないと感じていた。

 こちら以上に、恐らくは洋子の方が、そう思っているだろう。直接そう言えば、きっとあのこちらの心を何もかも見透して、優しく理解するような目で、首を横に振ってみせるに違いなかったが。

 蒔野は、ほどなく洋子のことを何も言わなくなった。それは、関心を失ったからではなく、彼女への思いの中に、何か気軽には人前に曝せない感情が籠もるようになったからだった。

 三谷がそれに気づいたのは、バグダッドの洋子の滞在先でテロが起きた時の蒔野の尋常でない落ち込みようと、その後、一カ月以上沈黙があった後に、無事がわかってその喜びを抑えきれぬように報告してきた時の様子からだった。

 蒔野は、常日頃から陽気な人間だったが、人を笑わせるのが好きな割に、彼自身が心から笑っていることは珍しかった。殊に昨年来、蒔野は些か迂闊なほど、人と冗談を言い合っていても、ふとした拍子に、独りだけまるで別の場所にいるかのように、ひどく考え込むような表情を見せることがあった。

 蒔野の音楽的苦悩に薄々気がつき、心配していた三谷は、ともかくも、彼の笑顔を喜んだ。しかし、いつしか蒔野に、一人の女として惹かれていた彼女は、まるで報われる見込みのないその感情の火を、必死で踏み消そうとしている最中だった。

 蒔野がパリで洋子に会う。—飛行機のチケットの件で蒔野とやりとりをしながら、三谷は、二人の再会の光景を思い描いて、胸の奥の不安の在処を鷲掴みにされたかのようだった。

—洋子さんに会うんですか?」

 三谷は、からかい半分に探りを入れるつもりだったが、意に反して、ほとんど詰問するような調子になってしまった。

 蒔野は、その唐突さに怪訝な顔をした。そして、さすがに憮然として、

「まァ、……色々、予定があって。」

 とつれない返事をした。

 三谷はこのところ、こんなふうに、何度か蒔野の不興を買っていた。

 去年はそんなことは一度もなかった。早とちりや頑固さを呆れられ、笑われることはあっても、疎まれていると感じたことはなかった。むしろ関係者とトラブルになった時には、割って入って庇ってくれることさえあった。

 今は、思いと行動とがちぐはぐで、もどかしかった。三谷は、そういう自分に嫌悪感を覚えた。

 マドリードの事務局からは、安いチケットなので、変更は出来ないと購入前に何度も念押しされていた。蒔野もそれは承知していた。

「一応確認して、無理なら、自分でどうにかします、片道分のチケットくらい。」

「だったら、要らなくなったチケットで、わたしが行ってもいいですか、マドリード!? 蒔野さん以外も、すごいギタリストがたくさん出演しますし。ギターの勉強のために。」

 三谷は、あえて無頓着らしい明るさを装って、半ば本気でそう言った。普段なら、それをすぐに冗談と取って笑いそうなものを、蒔野は、しばらく考えてから、そのやりとり自体を持て余したように、少し微笑んで、

「購入者の名前の変更って、出来るの?—まぁ、会社が許すなら、いいと思いますよ。勉強になるし、確かに。」

 と言った。

 蒔野は結局、溜まっていたマイル・ポイントで往路の飛行機の座席を確保した。マドリードでは、マリオ・カステルヌォーヴォ=テデスコがセゴビアに献呈した《ギター協奏曲ニ長調》を演奏する契約で、機内でも、ワインで少しぼんやりした頭で、急に気になりだしたスコアの数カ所を確認した。

 初めてコンサートで演奏するこの曲のために、ここ一月ほどは、比較的練習に集中できた。現地のオーケストラとの共演には不安もあったが、今は一人で舞台に立つより気が楽だった。

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毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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