日本建築論

民衆」の発見と縄文的なるもの:第5章(2)

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市です。よって、日本の建築を見るときには、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに、対峙せざるをえません。本連載では、伊勢神宮(宗教)、国会議事堂(政治)、桂離宮vs日光東照宮(天皇制・体制転換)など、シンボリックで具体的な有名建築をとりあげ、それらを巡って繰り返し重ねられてきた議論を一つずつ追っていきます。それを背景に、20世紀日本のナショナリズムとモダニズムの相克を読みとく連載です。


○ なぜ日本ブームなのか

 前回とりあげたように、1950年代に川添登が編集していた『新建築』の誌上では、伝統論が繰り返し、テーマになっていた。例えば、1955年12月9日、「伝統をどう克服するか?」というシンポジウムが国際文化会館で開催され、丹下健三、池辺陽(いけべ・きよし)、大高正人、吉村順三、コンラッド・ワックスマンらが登壇し、その内容が同誌に掲載された(『新建築』1956年3月号)。

 こうした状況を受けて、当時の住宅や丹下の建築は、日本的なものを意識した空間の表現を試みている。また海外でも日本の古建築が注目された。池辺の「日本的デザインといかに取りくむか?」は、こうした状況を招いた背景を6つのポイントから整理している(『新建築』1955年2月号)。彼は戦前に日本的なモニュメンタリズムに傾倒していた時期もあったが、戦後はマルクス主義の影響を受けながら、合理的な思考によって1950年代に立体最小限住宅を設計した。また東京大学で教鞭をとりながら、モデュールやシステムの技術的な開発を追求した建築家である。

 池辺の指摘した6つのポイントとは、第一に、近代建築が行き詰まり、人間的な空間の把握を求める新たな展開が模索されたこと。第二に、そうした傾向の結果、世界の建築家に対して、日本の古建築が大きくアピールしたこと。第三に、後進国の発展とそれに伴う民族主義的な傾向が擡頭したこと。例えば、メキシコでは、壁画主義の運動から影響を受けて、ファン・オゴルマンが設計した大学都市では、民族主義的な題材にもとづく強烈なデザインの巨大壁画が描かれた。

 第四に、ソ連の社会主義リアリズムの立場の民族的建築様式と、その社会組織に対する共感を原因とする日本的デザインの確立をめざす傾向。当時、ソ連では自国から登場した前衛的なロシア構成主義を否定し、古典主義を基調とした様式を民衆のための建築として推奨していた。第五に、戦後は一時なりをひそめた反動的な傾向の復活である。日本の敗戦によって、ナショナリズムの時代と共振した帝冠様式や国策による和風ホテルなどが否定される雰囲気をもたらし、逆に無国籍なイメージのモダニズムへの道が開けた。だが、これに対する揺り戻しが来た。そして第六に、戦後盛んな社会的、政治的解決へのデザインの行き詰まりから、日本的なデザインが注目されたこと。

 以上の池辺の指摘は、世界の動向を見据えながら、よくまとめられていると思うが、これに対して、前川国男、丹下、清家清、RIAらが反論している(1955年2月号)。当時の建築界は、いかに議論が活発だったかをよく示していよう。


○ 戦後における「民衆」の登場

 当時のキーワードとして「民衆」が挙げられるだろう。例えば、国鉄でも、戦後の復興にあたって、外部資金を導入して駅を建設する「民衆駅」の制度を導入した。戦時下において「国民」であることを強いられてきた人々は、新しい時代を迎え、自由を謳歌する「民衆」になったのである。

 この言葉は建築家からも語られた。例えば、国会図書館のコンペにおいて佳作一席になった丹下は、自らのプロジェクトを「伝統の近代化と民衆に奉仕するプラン」(『新建築』1954年9月号)と説明している。おそらく現代の社会では、「消費者」という言葉がそれにとって変わり、実質としてもそのように変容してしまったと思しいが、当時、公共施設の主役は民衆だと認識されていた。

 ほかにも、丹下は次のように述べている。「建築家は、ただ単に密着するだけでなく、民衆のポテンシャル、民衆の希望に応えて、建築家としての専門の知識と技術と創造力をもってイメージを打ちだしてゆくことが必要なのである」(「建築家論」1956年初出/『人間と建築』彰国社、1970年に収録)。そして「建築家は現実の矛盾—民衆と建築とのかかわりにおける矛盾—を解決する具体的なイメージを民衆になげかけることによって、民衆のポテンシャルなエネルギーを具体化し現実化してゆくことができる」、と。

 こうした傾向は、桂離宮の理解とも連動している。戦前、ブルーノ・タウトが来日して、日本建築におけるモダニズム的な性格を絶賛した際、シンプルな伊勢神宮や桂離宮は天皇的な系譜とみなし、反対に装飾過多の日光東照宮は将軍的な系譜に分類していた。つまり、政治的なイデオロギーに重ねあわせている。あるいは、神道/仏教という宗教的な枠組で捉えることもできる。これらに対し、民衆の登場はむしろ社会の階層と結びつく。

 丹下の論文「現代建築の創造と日本建築の伝統」(『新建築』1956年3月号)は、住居の系譜が二つの源流をもち、ひとつは竪穴式、もうひとつは高床の切妻型による住居だと指摘している。前者は下層の農民、後者は上層の貴族において発展したという。彼の歴史観は、以下の通りだ。伊勢の正殿は、高床式の神格化であり、素朴で力強く、簡潔だが格式高い。伊勢から寝殿造—書院造には、日本建築の開放性が発揮されている。一方、竪穴式住居から農家—町屋は、閉塞的なものである。そして数寄屋造を間にはさんで、桂離宮において歴史的な系譜のすべてが焦点を結ぶ。

 「ここには、アニミズム的神性、もののあわれ的主情性、すき、さびにあらわれる象徴性がすべて含まれているとともに、また生活のエネルギーと智恵から生まれる健康な素朴さをももっているのであるが、しかしそこには、「わび」的性格がまつわりついている」。つまり、桂離宮は単に天皇的なものでなく、民衆の感覚を包括した空間として高く評価されるわけだ。

 なお、同号に寄稿した建築史家、太田博太郎の論考「古典としての建築遺産と歴史家の立場 桂ブームに想う」は、上記の見解を裏付けている。彼によれば、桂離宮の歴史的な意義は、庶民的な建築の表現が純化されて、貴族住宅に組み込まれたところにある。丹下の論旨と似ていよう。したがって、東京大学の同僚だった太田が、丹下に影響を与えたのかもしれない

 なお、太田は、古建築への礼賛に対し、下手をすれば、ただの設計の虎の巻探しになると述べて、苦言を呈している。昭和の初めに茶室がもてはやされたときも、表層的な模倣に終わり、歴史的な意義が探求されなかったからだ。ゆえに、それぞれの建築の時代背景を考える必要があるという。かくして、発見されたのが、民衆である。


○白井晟一と縄文的なるもの

 川添登が1950年代半ばの『新建築』において集中的に伝統論を仕掛け、言説を煽り、その到達点となったのは、『新建築』1956年8月号だろう。表紙と巻頭は、中世の民家、すなわち江川邸の写真である。これに寄稿したのが、白井晟一のあまりにも有名な論考「縄文的なるもの 江川氏旧韮山館について」だった。彼は、伝統論でしばしば参照される桂や伊勢神宮とはまるで違う、異形の建築について、以下のように描写している。

 「茅山が動いてきたような茫漠たる屋根と大地から生え出た大木の柱群、ことに洪水になだれうつごとき荒荒しい架構の格闘と、これにおおわれた大洞窟にも似る空間は豪宕なものである。これには凍った薫香ではない逞々しい野武士の体臭が、優雅な衣摺れのかわりに陣馬の蹄の響きがこもっている。繊細、閑雅の情緒がありようはない。・・・視覚の共鳴をかち得る美学的フィクションはどこの蔭にも探せない」。

 この論考は、しばらく誌面を賑わせた伝統論への一撃でもある。白井は「元来日本自身の伝統探求のオリエンテイションにははなはだ問題がある」と述べ、「いつの間にか形象性の強い弥生の系譜へ片寄った重点がかかり慣習化されてしまったということはないだろうか」という。「私は長い間、日本文化の断面を縄文と弥生の葛藤において把えようとしてきた」。白井は、これをギリシア文化のディオニュソスとアポロンにも似たものと位置づけ、「縄文・弥生の宿命的な反合が民族文化を展開させてきた」と論じる。

 ここで政治や宗教のイデオロギー以前というべき、もっと原始的な縄文と弥生の概念が提出された。彼によれば、ジャポニカの源泉は、「都会貴族の書院建築であるか、農商人の民家である」。だが、江川氏旧韮山館は、そのいずれでもない。

 この空間は生活の智恵でもない。「文化の香りとは遠い生活の原始性」だけが迫る、武士の居館だ。「私はかねてから武士の気魂そのものであるこの建物の構成、縄文的なポテンシャルを感じさせるめずらしい遺構として、その荒廃を惜しんでいた」。そして白井は、こう述べている。「消長こそあれ、民族の文化精神をつらぬいてきた無音な縄文のポテンシャルをいかに継承していけるかということのうちに、これからの日本的創造のだいじな契機がひそんでいるのではないかと思う」。

 白井は、西欧から流布したモダニズムを吸収しながら、日本という場所を意識して伝統論に接続する丹下と異なる立場をとっており、そのデザインもまったく違う。それが「縄文」という言葉に集約されている。

 もっとも、これが<縄文>という概念が伝統論に登場した最初ではない。すでに岡本太郎が、縄文土器に衝撃を受け、民衆のエネルギーによって、繊細でやわな伝統論をひっくり返そうとしていた。が、白井は縄文土器に言及しているわけではない。より抽象的な概念として「縄文的なるもの」と述べている。ともあれ、岡本については、次回以降の連載で詳しく触れたい。


○真の施主は民衆

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五十嵐太郎

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