無影燈(渡辺淳一)

『失楽園』(角川文庫)、『愛の流刑地』(幻冬舎文庫)などの小説、さらには『鈍感力』(集英社文庫)などのエッセイでも知られる作家・渡辺淳一。今では「性愛」についての作家というイメージが強いですが、デビュー当時は現役の医師であることが注目されました。今回のfinalventさんの書評は、そんな渡辺の医療小説『無影燈』。あのノーベル賞作家との比較から、この小説を読み解きます。

作者の経験がふんだんに織り込まれた小説

 渡辺淳一の『無影燈』は作品それ自体よりも、TBS系のテレビドラマ『白い影』の原作として知られていることがある。テレビドラマで感銘を受け、原作も読んでみたいという人にも読み継がれている。1977年の角川文庫版に加え、2010年にはポプラ文庫版が出た。渡辺淳一の膨大な作品群のなかでも、新しい古典にふさわしい。また近年エロスを追求する彼の文学の原型とも言える。

無影燈(上) (ポプラ文庫)
無影燈(上) (ポプラ文庫)

 最初のドラマ化は、原作が毎日新聞社から単行本化された翌年、1973年のことだ。主演は田宮二郎でヒロインは山本陽子だった。田宮は当時38歳。原作の主人公の37歳とほぼ重なる。田宮は現実も43歳で非業の死を遂げ、その暗いイメージがその後、適役だったことを決定的にしていた。が、2001年のリメイクで主人公となった28歳の中居正広も好演だった。それでも28歳の男が38歳の男を演じ切れるはずもない。リメイクは原作と異なり、平板な純愛の物語になった。ヒロインも21歳のしわ一つ無い竹内結子である。純愛として描く傾向は旧ドラマにも見られたが山本陽子は当時31歳で、大人の女の陰影をそのエロス性とともに表現していた。

 原作の主人公・直江庸介は37歳の医師である。ヒロインといってもよい志村倫子は24歳の看護師。二十代前半の女性は現代からするとまだ若いようだが、原作の1972年のころは結婚適齢期を過ぎるかに見られる微妙な年齢だった。私が20代だった1980年代でも「女性はクリスマスケーキ。25を過ぎれば売れ残り」と言われた。倫子の直江への愛は、結婚を諦めるという含みが自然にあった。しかし不倫というわけではない。直江は独身である。

 直江庸介は、俊英として大学病院で講師もし将来も嘱望されていた外科医だったが、なぜか常勤が5名の個人病院で雇われ医師となった。二枚目で腕も抜群によいが、宿直にバーにでかけたり、女の噂も絶えなかったりする謎のヒール(悪漢)として描かれている。物語の冒頭、喧嘩で血まみれとなった泥酔のヤクザを直江は女子トイレに押し込める。物語が進むにつれ、登場人物の女に次々と手を出していく。しかし他面、独自のヒューマニズムの魅力も際立つ。一風変わったピカレスク(悪漢小説)と読んでもよい。なお、ヒールと天才医師を組み合わせて人気を博した手塚治虫『ブラック・ジャック』(秋田書店)の初出は1973年なので、『無影燈』の影響もあったかもしれない。

 直江庸介医師とは何者か? 物語はその謎を探る推理小説の仕立てにもなっている。彼をとりまく女たちもその謎に巻き込まれ、それぞれのエロスを露わにする。読者もその感興に自然に引き込まれていく。ワンシーンも定量的で読みやすい。週刊誌『サンデー毎日』に連載されていた要因も大きいだろう。

 作者・渡辺淳一は前年の1970年7月に短編集『光と影』(文春文庫)で直木賞を受賞したことで、山田病院分院(現・東向島病院)の医師を辞め、作家に専念した。長編『無影燈』は彼の作家人生の旅立ちを賭けた作品でもあり、医師としての実経験が惜しみなく盛り込まれた希有の小説である。それゆえにこの作品に親しみを持つ医師も少なくない。ピカレスクという要素も臨床の現場が到達した倫理と言ってもよく、ヒールに設定されている直江は実際には医師法にも通じていて、医療の現場そのものが孕む矛盾と残酷な本質をえぐり出している。この小説は医療批判の思想として読むこともできる。

 時代的な制約はある。「癌の告知」問題が物語を紡ぐ太い糸になっているが、現代では告知が常態化している。喫煙シーンは現代からすると意外なほど多い。女性のとらえ方もステロタイプになりがちだ。格好いいはずの直江の私生活の描写も、リアルに想像すると滑稽なほど北海道人である。しかしそうしたディテールは、1970年代という時代の風物であって、物語の本質ではない。だからこそ読み継がれている。

カミュが描けなかったものと『無影燈』が描いたもの

 物語に入ろう。そのために直江の正体を明かすことになるので、テレビドラマも未視聴、原作も未読の方は、以下、作品を味わってから読まれたほうがよいだろう。

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