第四章 再会(4)

蒔野の専属ではないといえど、彼自身がが最も多くCDを出してきたレコード会社の買収の話を岡島から聞く。岡島は自社の買収の話や最近起こったことを蒔野に説明し始める……。

 蒔野は、クラシックの他の演奏家と同様に、必ずしもジュピターの専属ではなかった。しかし、デビュー・アルバム以来、最も多くの録音を残しているのがジュピターであり、売り上げも、他社で出したものに比べて平均的にかなり多かった。

 岡島の話では、噂は以前からあり、経営的には、いつそうなってもおかしくなかったが、ほとんどの社員は、あまり現実感を持っていなかった。寝耳に水だった、とのことだった。

 社内には、「当面、従業員の解雇はない」という本社の社長のコメントが伝わり、皆が「解雇はない」ではなく、その「当面」という言葉のことばかり気にしているという。

 買収後のリストラは、社員のみならず、所属する音楽家にも及ぶはずで、コンサートの共演者たちが気に掛けていたのも、つまるところ、そこだった。

 蒔野は、常日頃、海外の有名オーケストラの指揮者の人事を巡る裏話から団員の不満やソリストの生活困窮に至るまでをやたらと詳しく喋り散らしている「オタク」の岡島に、自社の買収が「寝耳に水」だったとは名折れじゃないかと、思わず一言、嫌味を言った。冗談めかしてはいたものの、内心呆れていた。普段はうまく頭に撫でつけている岡島の薄い縮れ毛が、その日に限っては、外の強風に煽られたのか、ひどく乱れていた。

 しかし、岡島はそれを待ち構えていたかのように、こんな話をし出した。

 買収の話が社内一般に伝わったのは、蒔野が、渋谷で是永に会った日の朝だった。ただ、自分は某筋から、既にその情報を掴んでいた。多分、社内でも自分だけだろう。もちろん、確実ではなかったので、蒔野に話せなかったのは申し訳なかった。

 蒔野のCDは、クラシックの世界では、まだよく売れている方だが、厳しい時代だけに、買収後、グローブ・ミュージックがどう判断するかはわからない。特に販売部は、数字のことしか頭にないので、実は今でも、蒔野の初回プレスの枚数については、いつも喧嘩になっている。絶対こんなに売れっこないと言い張る人間たちと、自分がこれまでどんなにがんばって戦ってきたか!

 そこで、自分としては、クロスオーヴァーものの《この素晴らしき世界》で、大きな商業的成功の実績を作ってもらうことが、蒔野のためだけでなく、クラシック部門の社員の将来のためにもなると思っていた。是永はその意図を知らなかったが、蒔野にとって良いことだという点では同意していた。唐突に、蒔野からレコーディングの中止を伝えられて、彼女も動揺していたが、あとで、蒔野はこの買収話を知っているのではないかとも勘繰っていた、と。

 蒔野は、岡島の一々含みのある口調も相俟って、嫌な話を聞かされていると気が滅入った。大体、この話は本当なのか? 是永はもう随分と以前からポップスのカヴァーの企画の話をしていて、今回、ようやく彼もその気になったのだった。アルバムのコンセプトも、映画音楽から日本の歌謡曲まで、幾つかの案が浮かんでは消え、三谷も含めた話し合いの末、ようやく〈ビューティフル・アメリカン・ソングズ〉というところに落ち着いた。それは、岡島の話と食い違うとまでは言わないものの、すんなりとは筋が通らなかった。第一、その間、岡島の存在感はないに等しかった。

 蒔野はそもそも、事実だとしても、グローブに買収された後の自分の扱いを、そんな風に勝手に心配されていたというのが気に喰わない。販売部が、それほど自分を低く評価しているなどという話も、知ったことではなかった。

 得々と話している岡島は、一体、何のつもりなのだろうか?

 二十年もギタリストとして活動してきて、去年は、祝われているのか、自分で祝っているのかよくわからないような数のコンサートをこなしながら、なんとかその手応えを掴もうとしていた。これだけの人が、自分の演奏を聴きに来てくれる。その事実に、彼はキャリア相応の謙虚な感謝の気持ちを抱いていた。

 CDにせよ、何十万枚も売れるわけじゃない。しかし、金も掛けずに、ほとんど一発録りで、そこらのJ―POPより売れるレコードを作り続けているじゃないかと、腹立ち紛れに考えた。二十年間も!……

 それでも、売り上げが伸びているかと言えば、そうでもなかった。落ちてないだけマシだという程度で、グローブが自分をどの程度の音楽家として扱うつもりなのかは、確かにわからなかった。

「私だって、クラシック部門一筋でここまで来たわけですからね。悔しい気持ちは人一倍です。でも、ここで終わるわけにはいきませんから。ええ! 新天地で、なんとかもう一度、クラシックを盛り上げていきたいというその一念です。そのために、蒔野さんのお力がどうしても必要です。《この素晴らしき世界》の件、もう一度、考え直してはいただけませんか?」

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