詩人・黒田三郎が残した二つの「革命」
民族の言葉は、それが生活に息づいているなら詩と詩人を持つものだ。現代の日本ではどうだろうか。詩はあるだろうか。詩人はいるだろうか。それらがないなら私たちは、民族の言葉と生活を失っているのではないか。いや。私たちはときおり一人になって、多少恥ずかしげながらも愛する詩を呟くことがある。それはまばらに。ある時代の集約の感覚もなく。そうして呟く詩の不確かさは、どこかにあるべきはずの詩の形をぼんやりと示し、詩人という生き方がなおありうることを想起させる。
それは流行歌の、例えば、宇多田ヒカルや松任谷由実の歌の歌詞の断片であるかもしれない。日本の近現代史の詩の伝統にある現存の詩人としては谷川俊太郎の詩であるかもしれない。
あるいは2014年(平成26年)1月に亡くなった吉野弘の詩かもしれない。彼の「夕焼け」という詩は、満員電車のなかで席を譲ろうとして恥じる少女の姿を平明な言葉で描き出し、多くの日本人の詩情に自然に融け込んだ。生活の心情が民族の言葉と遭遇する場所を見つけるように。
吉野弘の詩がそのような形を取ったのは、彼がひそかに心の内に師とした黒田三郎の影響があるだろう。1980年(昭和55年)、60歳で亡くなった黒田三郎という詩人とその詩はもう忘れられることもあるが、日本の近現代の詩において二つの革命を静かに残した。一つは生活の言葉を使うこと、もう一つは市民として詩人を生きることである。それだけのことと言えば、それだけのことだ。それがなぜ革命であり、詩たりうるのか。赤裸々な「私」の言葉を見つけることは、市民社会の生の意味でもあるからだ。
「紙風船」に浮かび上がる二重否定の意味
そのことを示した詩人・黒田三郎は、流行歌の歌詞を率先して作る人ではなかったのに、その詩が自然に人々に歌われることもあった。なかでも、1969年から1974年に活躍したフォークグループ「赤い鳥」が歌って多くの人の愛唱歌となった「紙風船」は黒田の詩によるものだった。その年代を生きた人ならみな、口ずさむ。
落ちてきたら 今度はもっと
高く高く 打ちあげようよ
歌詞の大半は、この単純なフレーズの繰り返しでしかない。が、このフレーズの繰り返しが秘める詩情を、「赤い鳥」の男女の声のコーラスでよく響くように後藤悦治郎が曲を付けた。「赤い鳥」のオリジナル曲としては最初のアルバムとなる1972年の『パーティー』に収録され、翌、1973年に発売された。当時の国鉄のCMソングともなってお茶の間にも流れた。なお、このシングル盤のB面は「赤い花、白い花」だった。(参照)
前半の繰り返しのフレーズの後、もう一つのフレーズが加わる。「赤い鳥」の曲ではその部分の繰り返しがあたかも曲の二部のように盛り上がる。
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