騒がしい車道からふと通りかかった路地に足を踏み入れた時だった。
ほかとは違って、ゴミの吹きだまった路地だった。いくつかのことが瞬時に起こった。脳内会話で、「あれ?」とひとりのオレが声をあげた。そのオレは、今確かに何かの気配が脳にすっと入ってきたように感じたのだ。懐かしいような、だがそれでいて得体の知れない気配。同時にオレの目は、路地の遠く先に女の後姿を見ていた。コートを羽織っていた。足元の水溜りを、夕陽が染めている。彼女のハイヒールはもともとそんな色だったのか、それとも夕暮れの陽を受けたためだったのか、血のような深紅だった。彼女は突き当りの通りに向かって歩いていくところだった。だがなぜか、足音は聴こえず、車道からオレに纏わりついてきた音たちもいつの間にか消えていた。彼女が前に踏み出した右足は宙で静止し、風で転がっていたゴミ袋が魂を抜かれたように止まっている。
見たことのある光景だった。親父が遺したニューヨークを写した何百枚もの写真の中に、それはあった。
––––––『都会島のミラージュ。わたしの見た蜃気楼』
その写真には、親父の字でそう書かれてあった。白黒写真だというのに、女の人のハイヒールが真っ赤だと信じ込ませるものがあった。親父は、この時ファインダーを通してその女の人の夢を切り取ろうとしたのだろうか。それとも親父は自分の抱いた夢を、人びとの手垢や血や嘔吐にまみれた路地裏に見いだしていたんだろうか。
ふいに、頭の後ろでシャッターを切る音がした。同時に目の前の静止画はスローモーションで動き始め、セピア色の気配は大きく揺らぎ、オレの視界は波ガラスで覆われていった。後ろから駆けてきた男がオレの視界に飛び込み、一眼レフで女を連写しながら追い越していく。男は、オレと年も背格好も同じだった。無精ひげに覆われた横顔、ファインダーを覗きこむ瞳、シャッターを切る指、それらがカットバックされてプールの底に投影されたものたちのように歪んで見えた。
オレは何か強烈な力で背中を押され、猛然と男を追った。だがでこぼこの石畳が、まるでオレが進もうとする方向と逆に動き出したように、男との距離は縮まることはなかった。あるいは被写体にされた赤いハイヒールの女が、オレに捕まらせないために男を引き寄せてしまったのかも知れない。これ以上、自分たちの夢の世界に入ってはいけないわとでも言うように。オレは何かを必死に叫んでいたが、それらはひとつも声にはならず、水の中のような空間を激しく揺るがしただけだった。渦に覆われた視界がもとに戻ると、もうカメラマンと被写体は路地裏から消えていた。
石畳が赤く染まっていた。
敷かれた当初は仲良く均等に肩を並べていた石たちが、時を刻むうちに頭をすこし飛び出させたり、隣の石を追いやるように移動したりしていた。石は石なりに、自分が追い求める方向に、年月をかけて動いてきたのだ。それに比べてオレはまるで人生の傍観者で、そんな石たちにしっかり捕まえてもらわなければひとりで立ってることさえできない。足の先から細胞という細胞の熱が体の中をぐんぐん上昇し、それらが視神経に流れ込んでくる。ふたつの目の周りがその熱で腫れあがり、それまで眼球の奥に無理して堰き止められていた涙が、滝のように流れ落ちた。熱で浮かれた体のどこかに、親父の体温が溶け込んでいる気がした。
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