第四章 再会(2)

洋子から届いた長い長いメールは、蒔野が待ち望んでいたものであり、また彼女の魅力を再確認するものだった。パリでまた会いたいという文章を読み蒔野は……。

 そうすると、ふしぎと、文章がすらすらと出てきました。なぜかはわかりません。バグダッドで、あなたの演奏ばかり聴いていたからかもしれません。あなたの音楽が、あの絶望の世界にいた間、ずっとわたしの精神的な支えになっていました。

 最初は、あなたに見せるつもりはなくて、ただ想像の中で、あなたに聞き役になってもらっていました。けれども、書き終わってから、やっぱり読んでもらいたいと思い直しました。……」

 洋子は、自爆テロを間一髪逃れられた時の状況から筆を起こして、その後の自分の感情の揺れについて、努めて理性的に書き綴っていた。今という時には、そうすべきだというその態度を、蒔野は、彼女らしいと感じた。そして、その芯の強い、静かな筆致が、彼の胸にも染み渡った。

—あと一つだけ質問をしていたら、わたしは死んでいました。何をしていても、その瞬間に時間が巻き戻されてしまいます。

 なぜ、わたしはあそこで死ななくて、今生きているのか。……生まれて初めて、時間が一秒一秒、均等に、ただまっすぐ流れていくことに感謝しました。今までは、それを無慈悲にしか感じませんでしたが、わたしの心をあまり慮りすぎるような時間には、きっと耐えられないでしょう。

 今はただ、時が流れるのに身を任せています。……」

 それから、イラクの惨状とそこで今も生活している人々への思いが綴られ、帰国後に父であるイェルコ・ソリッチが監督した映画《幸福の硬貨》を見直したこと、その中で引用されているリルケの《ドゥイノの哀歌》を読み返したことが続いていた。

 二週間休暇を取った後、今はまた、パリのオフィスに戻っているという。


 フィアンセのことも、結婚のことも何も触れられていなかった。そして、六月の予定が以前に聞いていた通りなら、パリでまた会いたい、その時には、もっと楽しい話をするからと、最後を少し和らいだ調子で締めくくっていた。

 蒔野は、六月三日に現代ギターの父であるアンドレス・セゴビアの没後二十年を記念して開催されるフェスティヴァルに招待されており、その後、かつて彼も学んだパリの音楽学校でマスタークラスを受け持つこととなっていた。週末の最終日には、校内のホールで学生らを含めた演奏会が催される予定で、年明けのメールでは、それに洋子も招待していた。

 そのマチネの終わりに、彼女のために《幸福の硬貨》のテーマ曲を演奏するつもりでいた。

 洋子には、すぐに返事を書いた。無事を歓び、彼女の「長い長いメール」の宛先として、自分を選んでくれたことに感謝した。そして、もちろん、パリ滞在は予定通りなので、その時にゆっくり、食事でもしながら話の続きをしようと誘った。

 洋子からは、今度は一日と置かずに、弾むような返事が届いた。「うれしい」という一言が、蒔野を幸福にさせ、同じ気持ちを抱かせた。

 蒔野は、自分の中にある、洋子に愛されたいという感情を、今はもう疑わなかった。胸の奥に、白昼のように耿々と光が灯っていて、その眩しさをうまくやり過ごすことが出来なかった。

 洋子も、自分を愛しているかもしれない。—彼女の言動に、そうした徴を見出す度に彼は苦しくなり、そうではないのではと思い直す時にも、結局、苦しくなった。そして、自分がそもそも、彼女の愛に値する人間かどうか、むしろ冷静であるために考えようとして、却って逆効果になった。

 なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。

 美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか?

 蒔野は恐らく、最初に会った時から、洋子を愛し始めていた。あの夜は、もうそのようにしか振り返り得なかった。そして、その時抱いた彼女への憧れは、今では乗り越えるべき彼女までの距離だった。

 彼女がバグダッドにいた間は、さすがにそれどころではなく、その思いは抑制され、ある意味では、曖昧なままに留めておくことが出来た。

 しかし、彼女が帰国した今や、彼は、この愛の処し方について、ひどく性急で、極端な二者択一を迫られていた。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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