第三章 《ヴェニスに死す》症候群(6) 第四章 再会(1)

洋子は蒔野の音楽を聴きながら、彼への思いを確信する。彼に会いたい。そして物語第四章に入り、2人の再会へと進んでいく…。

 土台、雄渾なチェロという楽器の響きを、今の彼女は、とても受け止めきれなかった。

 人間的な喜怒哀楽と、まったく無関係に屹立するバッハの楽曲を、蒔野のギターは、あの日のコンサートと同様に、そっと手を差し伸べるように彼女にもたらした。それでいて、彼のまだ若い、才能とのハネムーンを心ゆくまで楽しんでいるような演奏は、彼女の心をすべて受け止めて、まったく揺るぎなかった。

 ただその音楽とだけ一つになって、すべてから解放されたかった。時間と旋律とが、一切の過不足なく結び合って流れてゆく美に融け入りたかった。

 まだ二十代後半の蒔野のジャケット写真にも、彼女がフィリップに語った「神様が戯れに折って投げた紙ひこうき」の風情があった。それに比べるなら、あの夜のコンサートの思索的な表情の眉間には、いつまで経っても落ちてこない飛行機の先端に、微かに兆した震えのようなものが感じられた。

 スペイン料理店での会話の最後に、彼は「もう一つ、洋子さんだけが気づいてることがあるね。」と言った。あれは、何だったのだろう? ブラームスを褒めると、あんなに喜んでくれた。それ以外の演奏には、納得していなかったのだろうか?

 洋子は、向かい合って、正面から見つめた彼の笑顔を思い出した。

 あの夜、ひとりでタクシーに乗らずに、朝まで一緒にいたいと言ったなら、どうなっていたのだろう? バグダッドへ来る前に、ただ美しいものに触れるだけでなく、彼に抱かれていたなら、自分の人生は、今どう変わっているのだろう?

 蒔野に会いたいと、洋子ははっきりと思った。そのくせに、安否を気づかう彼からの三通ものメールに、彼女は未だに返事を書いていなかった。

 ちゃんと書きたいと思っている間に、日一日と過ぎてゆく。

 とにかく、無事であることを知らせるべきだった。そして、感謝の気持ちを伝え、彼の音楽がどれほど大きな慰めとなっているかを知ってもらいたかった。

 しかし、自分がそれ以上の何かを書きたいと感じていることを、彼女は秘かに自覚していた。

 「惚れてる」とフィリップは言った。その余計な一言は、彼女の気持ちを、既に後戻りの出来ない方向へと衝き動かしつつあった。

 胎児のようにからだを丸めて、改めてリチャードとの会話を思い出した。

 帰国して、自分は彼と結婚するのだろうかと考えた。

 子供を作る。彼との間に。—それが自分の新しい生の一歩となることは、疑い得ない。自分の年齢を考えた。あと半年で四十一歳になる。時間が限られているという事実が、心に重く伸しかかった。

 第四章 再会(1)

 蒔野は、既にフランスに帰国しているはずの洋子から、三月末まで音沙汰がなかった時点で、一度、彼女への自分の気持ちを整理しようとした。

 彼女の身は、依然として案じていたものの、何をしていても気持ちが重たく沈み込んでゆくような不安は、日を経るごとに曖昧に薄れつつあった。

 二月までやりとりしていた二人のメールを読み返して、自分の調子っぱずれな陽気さに溜息が出た。相手は内戦状態のバグダッドにいるというのに。どういう神経をしているんだ、俺は、と恥ずかしくなった。

「楽しいメールの方が気が紛れるから」と洋子に促されるがままに、彼は、毎回一つは、メールの中に選りすぐりの笑い話を書いた。彼女もそれを、「こっちのスタッフにも聞かせてあげようとしたんだけど、思い出すと、わたしが自分で笑ってしまって、『ヨーコ、何言ってるのか、全然わからないよ。』って呆れられました。」と喜んでいた。蒔野は、鼻梁の付け根にしわを寄せて笑う彼女のあの美少年風の表情を思い出して、パソコンの前で笑みが零れた。

 しかし、間近で凄惨な殺戮が繰り返されている日々の中で、彼女がそれらのメールを、本当のところ、どんな心境で読んでいたのかはわからなかった。

 無理をしていたのかもしれず、実際に、最初は楽しんでいたのかもしれない。いずれにせよ、ホテルでの自爆テロ以後、そのすべてが耐えられなくなったというのは、彼にも想像できた。現実逃避の笑いが虚しくなると、改めて自分とどう連絡を取り合えば良いのか、冷めた気持ちで考え直すのも尤もだった。

 きっともう、自分の演奏も聴いてはいないだろう。そもそも、今のバグダッドで、クラシック・ギターのバッハなんかに、一体、何の意味があるだろうか?—そんなことを、蒔野は自宅のスタジオで、一向に身が入らない練習の合間に考えた。たった五時間の練習でさえ、彼の集中力は持続しなかった。

 諦めようと思いきったことで、蒔野は、自分が洋子を既に愛し始めていたことを悟った。これが、この一カ月半近くに亘る音信不通のもたらした、最も重要な変化だった。彼は、洋子の心の中で、自分の存在がどれほど大きな位置を占めつつあるかを、まるで知らなかったので、所詮は、二人は別世界の住人だったのだという結論を寂しく受け容れた。

 洋子からの「長い長いメール」が届いたのは、まさにそうした時だった。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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