英語の学習というと「とにかく文法が大事だ!」といった感じの学習重視派の人達と、「いや、日本人に足りないは会話の実践訓練だ。とにかくしゃべって慣れるのが大事だ!」という慣れ重視派の人たちがいます。受験英語などは、典型的な学習重視のアプローチだといえるでしょうし、一方、たとえば今流行りのフィリピン留学の大半は、後者の「慣れ重視派」の流れをくんでいるものともいえるのではないでしょうか? 日本人に足りないのは実践なのだから、とにかく1日7、8コマの会話練習をひたすら続けて場慣れすれば、しゃべれるようになるのだ、という考え方のようです。
この「慣れ重視」という考え方が正しいのなら、例えばアメリカ在住10年だと全員ペラペラになるはずです。ところが現実にはそんなことはありません。在米3年程度でも驚くほど流暢な人もいるかと思えば、10年、あるいは20年住んでいても驚くほど下手なままの方もいるのが現実なのです。中には40年住んでいたってカタカナ英語を脱却できない人さえ存在するのです。「慣れ」がそれほど万能ならば、いったいどうしてこのようなことが起きるのでしょうか?
いったい誰が何に慣れたのか?
仮に「慣れ」には一定の効果があるとしましょう。この場合、誰が何に慣れた結果、効果が上がったのか考えてみる必要があります。考えられるケースをいくつか挙げてみましょう。
1) 英語学習者が場慣れした。(極端に緊張しなくなった)
2) 英語学習者が、とりあえず単語を並べたり、つたない表現を繋いでなんとか意思を通じさせることに慣れた。
3) 英語学習者が、あまり通じないことになれ、とりあえず通じる範囲だけで過ごすことに慣れた。
4) 英語学習者が、言いたいことを我慢したり諦めたりすることに慣れた。
5) 英語を聞かされている方が、英語学習者の誤った発音や言い回しから意味をくみ取ることに慣れた。
これらのケースは、いずれも在米日本人の大多数が、どこかの段階で遭遇する事例です。僕自身もこれら全てを経験しました。なぜかホストファミリーやフィリピン語学学校の先生には通じるのに、あまり親しくない友達や赤の他人には通じなかったりするのです。これなんて要するに、先生やホストファミリーが自分の発音や間違った文法に慣れてくれただけの話です。あるいは難しい話題は意識的に避けていた時期もありました。言いたいことはあるのに、あまりに語彙不足で話す前からあきらことなど何回あったかわからないほどです。