第三章 《ヴェニスに死す》症候群(5)

洋子の帰国が迫るにつれ、バグダッドの静寂をみつめながら、婚約者リチャードとのスカイプの会話を思い出していた……。

 外出禁止令は、今や開始時刻が七時にまで早まっている。それ以後、通りからは一切、人の気配が消え、車の通る音さえしない。土地柄、虫の集きもなく、ただ砂を巻き上げながら風が強く吹き、時折、どこか遠くで、パトカーのサイレンが轟くだけだった。

 日によっては、よその国の記者たちが、気晴らしにパーティをしている声が漏れ聞こえてくることもあるが、この日はそれもなかった。

 恐らく、こんな静寂に浸ることは、これからの人生で二度とないだろう。そして、この静寂のなにがしかは、自分の中に残って、日常へと持ち帰られることになる。……

 洋子は、夜の度に闇が覆い隠してしまう、半ば廃墟と化した町の姿を思い浮かべた。数時間後には、また朝日とともに出現する、壁に囲まれた瓦礫の世界。その死そのもののような沈黙の闇の底で、暴力に軟禁された人々は、今も息を潜めて生活をしている。

 リチャードとスカイプで交わした会話のことを考えていた。

 イラク取材は、今回で最後になったと告げると、彼は椅子から立ち上がって喜び、しばらく画面には、小躍りする彼の腰だけが映っていた。そして、どうしてそれを早く言ってくれなかったのかと、笑顔は絶やさぬまま、少し真剣な目で抗議した。

「結婚の予定を早めよう。ハネムーンが何よりのリハビリになる。カンクンの別荘の写真はもう見てくれた? 僕の知り合いが、あそこをいつでも自由に使っていいと言ってる。カリブ海に数多あるリゾート地でも、あそこは断然ベストだよ。青い空と光り輝く海! 穏やかな波の音が、砂漠と血腥い戦争で傷ついた君の心を癒やしてくれるよ。太陽に抱かれ飽きたら、部屋に籠もって、今度は僕が君を抱く番だ! 何度でも愛し合おう。きっとすぐに子供もできる。僕たちの子供! ああ、もう想像するだけで目眩がしてくるよ。あまりの幸福に! 毎日、気がヘンになりそうなくらい心配して君を待ってる。今すぐにでも君を抱きしめたい。画面に飛び込んでそっちに行きたいくらいさ! いや、止めておこう。君を引っ張り出すべきだな、そこから、こちらの文明の世界に。」

「ごめんなさい、写真、まだ見てなくて。」

「まだ? ああ、そうか。……いや、悪かった。つい先走ってしまって。君に元気になってほしいから。」

「ありがとう。よくわかってるし、十分に心の支えになってる。」

 リチャードは、もどかしそうな様子で、更に言葉を継いだ。

「僕は、君のやりたいことを最大限、尊重してきた。ただ、ひとつの意見として聴いてほしい。—君は一体、自分に対して厳しすぎるよ。誰が見たって、十分すぎるほどのことをしてる。君は、同僚のジャーナリストが、イラクに行ったことがないというだけで、その資質を疑ったりするかい? しないよ、決して。それは、必要条件じゃない。それでも君は今、イラクにいる。そして、もっと何か出来たんじゃないかって悩んでる。それは、自分の能力っていうより、人間の能力自体を買いかぶりすぎてるよ。人類は、生物として、せいぜい歩いて移動できる程度の環境の中で進化してきたんだ。こんな、地球全体がリアルタイムでリンクされてる状況なんて、もう一個人のポテンシャルをとっくに越えてしまってる。だったら、自分が生き抜くために、最適の環境を選択して、構成して、それを自分の世界とするしかない。その内側で幸福を願うしかないじゃないか。違う? この不可抗力の時代には、どうにかそうやって自分の身を守りながら生きていくしかない。君は、決して世界の不幸に目を瞑ってはいない。進んで関与した。誰にでも出来ることじゃない。あとは、他の人に少しずつ責任を果たしてもらえば良いさ。……」

 洋子は、部屋に戻ってベッドに身を横たえながら、自分はなぜ、バグダッドに来たのかと考えた。

 アメリカのイラク侵攻後、社内のバグダッドへの赴任希望者は、意外にも競争になるほど多かった。その後、RFPも含めて現地での記者の死亡が相次ぎ、帰国後の深刻なPTSDが問題となると、自然と積極的な志願者の数も減っていった。

 洋子にようやく順番が回ってきたのは二〇〇五年の初めだった。

 その任を無事に務め上げて帰国し、既に十分な評価を得ていたにも拘らず、彼女が今回、たった一年後に二度目の赴任を願い出たことに同僚らは驚いた。そして、彼女はやはり、そういう人間なのだと、尊敬の念を、どこか少しまともじゃないという苦笑でまぶしながら噂した。彼女は推移を確認したがっているようだ。自分のキャリアに、とにかくイラクに行ったという事実が加わるだけでは納得がいかないのだろう、と。


 洋子の最初の赴任は、フセイン政権崩壊後、ようやく制憲議会選挙にまで漕ぎ着け、ジャアファリー首相の移行政府が誕生して、丁度その新憲法の国民投票が行われた時期だった。その後、改めて議会選挙が行われ、二〇〇六年五月に、ようやく現在のマーリキー政権が発足している。

 国家が溶解してしまった世界に、どんなふうにして秩序が再建されてゆくのか、洋子は興味があった。そこにこそ、政治という人間の営みの、最も原初的な力の発現が認められるはずだった。それは、自分が身を置いている“先進国”と呼ばれる世界の日常を、根本から捉え直すきっかけになるだろう。そしてそれは、苦境にあるイラクの一般市民たちの窮状を伝えたいという思いとも矛盾しなかった。繊細なもの、美しいものが自由であるための条件を彼女は見極めたかった。それらこそは、彼女の愛の対象だった。

 そして、自分は何を今見ているのだろう?

 ブッシュ政権がイラクでの国家再建の進展を強調するのとは真逆に、戦闘は激化の一途を辿り、その出口は最早、誰にも見えなくなっていた。「制御不能uncontrollable」という言葉を、洋子はここで何度耳にしたことかしれない。

 この状況下では、アメリカ軍の増派は、効果を上げるだろうとは言われていて、事実、この二週間で民間人の死者は減っているらしかった。しかし、それを伝える洋子の記事は、「大量破壊兵器の存在」という嘘によって開始されたこの戦争に一貫して反対する親しい知人たちの反発を買っていた。

 彼女自身、あまりに行き当たりばったりで、長期的な計画性の乏しい今の国家再建プログラムでは、これが一時しのぎに過ぎないことを懸念していた。しかしそのために、いつまで関与し続けるべきなのだろうか? つまり、ネオコンの主張通り、治安が回復するまで、強く更に関与し続けるのか?

 当初は、もう一クール、取材を延期するつもりだった。しかしそれは、フィリップの決定を俟つまでもなく、カウンセラーから既にストップがかかっていた。

「あなた自身が、『制御不能』になりますよ。PTSDの兆候はあります。その現実を過小評価しないでください。わたしは、まだあなたがバグダッドにいること自体、どうかしてると思ってますよ。あなたが、『過労死』の国の人間だからですか? 心も体もボロボロになって、この先何年も仕事ができなくなっていいんですか?」

 二度目のバグダッド取材への自分の過剰な期待を、洋子は冷静に振り返った。それが不首尾に終わりつつある今、彼女は、未来に茫漠とした、暗いものを感じた。ジャーナリストとして、この先、何をすべきか? 二度のイラク取材の経歴は、間違いなく、社内での昇進を有利にするだろう。しかし、なぜかそれを、率直に喜ぶ気になれなかった。

 自分は、あの時、質問をもう一つだけしていたら、自爆テロに巻き込まれて死んでいた。たった一つ。—どうして自分はまだ、生きているのだろう?

 もしアッシェンバッハが、ヴェニスで死なずに帰国していたなら、どうなっていただろうか? 折々、発作的に彼を襲った旅の衝動と同様に、一種の「衛生上の処理」として、ヴェニスの海辺で眺めたタッジオの美しさを思いながら、「凝然と冷たい、そして情熱的な勤行が支配している毎日々々の仕事場」へと、粛々と復帰するのだろうか?

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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