第三章 《ヴェニスに死す》症候群(4)

爆破テロにあった洋子に、今まで多くの人を見てきて、また見送ってきたフィリップが声をかける。話は洋子がいつも聞いている音楽のことに触れていく……。

「いい歳して知的でない女と寝てしまうと、明け方、惨めな気分になるよ。—とにかく、ヨーコには、他に居場所があるだろう。この三カ月の仕事を見ていると、ヨーコみたいな人間こそが、ここにいて感じたことを伝えるべきだとは、今も思ってるが。君の書く記事は、複雑に錯綜した様々な立場のイラク人の心情を、驚くほど繊細に捉えているし、歴史的な背景の解説も明晰だ。米軍の増派への期待と反発についても冷静な分析だよ。優秀だ、君は途轍もなく。」

 洋子は、カップを手に取りかけたまま、下を向いて首を振った。

「そう言ってもらえると慰められるけど、……褒めすぎね。どうすれば、イラクの現実とヨーロッパの日常を生きる人たちの頭の中とを媒介できるか、ずっと考えてきたけど、成功した手応えはないわね。米軍の増派一つ例に採っても、そもそもこの戦争は間違っていたという過去の問題と、こうなってしまった以上、どうすべきかという未来の問題との整理が、自分の中でもまだよくついてないの。」

「そりゃ、わからないよ、誰にも。戦争と治安維持のための警察活動との区別が、ますますつかなくなってきているのが、今のこの〈対テロ〉戦争ってやつだからな。」

「もう一クールいれば、もっとよくわかるのにっていう感じもあまりしない、本当のところ。……あなたが、特別に強い人間だなんて思ってはいけないけど、なかなか、あなたみたいにはいかない。何人も友人を亡くしてて、自分も何度か死にかけて、それでもちゃんと健康を保っていられるっていうのは。」

「死の現実感も、俺に対しては怠け癖がついてる。迎えに行ってやらないと、あっちからは来ないんだ。戦場だけじゃなくて、今じゃパリにいてもそうだよ。絶望的な知らせが届くと、なんとなく顔が火照るような、ぼおっとした感じが続く。そこで踏み止まれるなら、現実感は深追いしないことにしている。麻痺っていうのは、ありがたいもんだよ。」

「わたしは、その麻痺自体も、どこかで中途半端に拒んでるのね。……自分が健康じゃないと、苦境にある人のことは伝えられない。それはわかってる。でも、保たなくなりそうな体をどうやって保たせたらいいのか。無意識だと手遅れになりそうだけど、意識しすぎると逆効果のようで。」

「ジャーナリストとしては、感受性の馴致に問題があるが、人としてはその分、魅力的に見えるよ。スタッフの健康管理は、俺の仕事でもあるから、責任を感じてる。帰国を前倒ししてもいい。スカイプでのカウンセリングは?」

「何度か。ありがとう。」

「俺の場合は、やっぱり義務感だけじゃない。この仕事が性に合ってるって自覚してる。世界史の一番ホットな瞬間に立ち会ってるっていう興奮はあるよ。—いい機会だから、ひとつ訊いてもいいかい?」

「どうぞ。」

「君は、映画を撮ろうとは思わなかったの?」

「思わなかった。それは、全然。」と洋子は言下に否定した。「そんな才能もないけれど、わたし自身は、フィクションよりも報道の方が向いてたから。」

「君の言ってた《ヴェニスに死す》症候群。—あれはつまり、ジャーナリストとしての本分を確かめたいっていうこと? それとも、もっと私的な、父親との関係を見つめ直したいっていうこと?」

「二番目の方は何? 全然、意味がわからない。どういうこと?」

「お父上のソリッチ監督は、映像はそれは、幻想的なまでに美しいけど、根本的には社会派で、《幸福の硬貨》みたいな戦争映画の傑作も撮ってるだろ? その点では、君はやっぱり似てるよ。言われたかないだろうけど、俺は、ソリッチの娘だなとよく思う。取材で、カメラマンに写真を撮らせる時の指示ひとつ見てもね。だから、君が父親との関係を整理するためには、違うアプローチで—つまり報道で—父親以上の仕事をしていることを、自分に納得させる必要があるんじゃないのか、と思ってね。」

「考えすぎよ。……そうじゃない。考えすぎ。」

 洋子は、戸惑うような苦笑で否定した。しかし、フィリップは、自分の推測に自信を持っているらしかった。

「父とは、今は適度な距離感で、良好な関係を保ってる。映画監督としての父のことは尊敬してる。それはもう、他人のように、客観的にね。子供として認められてないっていう苦しみの時期はとっくに過ぎてる。いい歳よ、わたし。」

「だからだよ。そういう年齢だから、君自身のタッジオを求めて、バグダッドまで来たんじゃないのかい?」

「やめてよ、フィリップ。わたしのタッジオって何?」

「君の部屋の前を通ると、いつも《幸福の硬貨》のテーマ曲が聞こえてくるから。」

「ああ、……だから?」洋子は、ようやく合点がいったように、口を大きく開いて笑顔になった。「誤解よ、それは。音楽を聴いてたの。その曲を弾いてるギタリストが好きなの。サトシ・マキノって日本人、知ってる?」

「知らない。クラシック・ギターは聴かないな。」

「教養の無い男は、誰もベッドを共にしてくれないわよ。」

 フィリップは、一本取られたというふうに、笑いながら波打つような煙を吐いた。

「天才よ、彼は。本当に。—バグダッドに来る前に、彼のコンサートに行って紹介されたの。わたし実は、彼が十八歳でパリ国際コンクールに優勝した時にも、一度、サル・プレイエルに聴きに行ってるの。ショックだった。『ああ、天才!』って、それはもう、人を落ち込ませるくらい。こんな人がいるんだって。—そのあとは、ずっとフォローしてたわけじゃないけど、たまたま、東京のレコード会社の知り合いが担当で、連れて行ってくれて。」

「若いの?」

「ううん、わたしの二つ下。—」と、洋子は少し考えながら、窓の外に目を遣った。「彼は、神様が戯れに折って投げた紙ひこうきみたいな才能ね。空の高いところに、ある時、突然現れて、そのまますーっと、まっすぐに飛び続けて、いつまで経っても落ちてこない。その軌跡自体が美しい。」

「フィアンセには、しない方がいいな、その話は。」

「どうして?」

「惚れてるのがバレるから。」

 洋子は、軽薄な、ありきたりなからかいだと、迷惑そうにその言葉を突き返した。耳が熱を帯びたが、こういう時には、的外れな指摘でも狼狽する方が自然だと彼女は思った。

「ファンで十分よ、ファンで。一緒にいて、すごく楽しい人だけど、……ああいう人は、自分の人生に女が深く関与する必然を認めてないでしょうね。色んな女が、ちょこちょこ通り過ぎていくとは思うけれど。」

「君は、別だよ、きっと。」

「お世辞で、元気づけてくれてるの?」

「少しね。」

「ありがとう。ま、そうね、芸術家に憧れるのは、母親譲りね、きっと。自分に欠けてる才能だから。でも、わたしは遠慮しておく。リチャードに十分、愛してもらっているから。わたしも彼を愛してる。帰国したら結婚しようって、スカイプで毎日、その話ばかりよ。」

 *  

「保たなくなる」と言われながらも、洋子は第二クールの残りの二週間で、日々の報道とは別に、三本の特集記事を書き上げ、フィリップを呆れさせた。

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マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞で3月1日より連載を開始した芥川賞作家・平野啓一郎氏の新連載『マチネの終わりに』が、cakesでもスタート! 『空白を満たしなさい』以来、三年ぶりの長篇となる本作のテーマは「恋愛」。文明と文化、喧噪と静寂、生と死、更には40代...もっと読む

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