一故人

桂米朝—上方落語を滅亡から救った名人

衰退していた上方落語を復活させる一方で、桂枝雀や月亭可朝、桂ざこばなどの弟子を育て上げ、また異分野とも幅広く交流した、三代目桂米朝。この名人はいかなる背景を持ち、どのような人生を歩んできたのか、ライターの近藤正高さんが綴ります。


米朝を「面倒を見てくれる人だ」と直感したざこば

1990年代末に放送されていた志村けんの番組『Shimura-X 天国』が、最近になってあるCS局で早朝に再放送されている。その番組のトークコーナーに落語家の桂ざこばが出演する回があり、三代目桂米朝(2015年3月19日没、89歳)に入門する前後のエピソードを語っていた。驚いたのは、その再放送のあったのが米朝の葬儀の当日だったことだ。同番組は連日、本放送時の順番そのままに再放送されており、まったくの偶然であったことは間違いない。

番組中のざこばの発言によれば、彼が米朝と出会ったのは、学校をサボってはバイトに明け暮れていた中学時代のこと。ある日、大阪ミナミの劇場で米朝の高座に接して、「この人は自分の面倒を見てくれるんじゃないか」と直感したという。さっそく楽屋へ行って米朝に弟子入りを志願したものの、入門が認められるまでには紆余曲折があった。

何しろざこばは落語についてまるで知らなかった。あきれた米朝からもっと落語を聞いてから来なさいと言われ、劇場や落語会に通い詰める。そして中学卒業を前に、高校に行こうにも成績が悪くて入れる学校がないと、あらためて弟子入りを申し出たのだが、今度は「とりあえず就職するなりして世間の空気を吸って、それでも落語家になりたければまた来なさい」と言われたという。結局ざこばは、同級生の父親が経営する配線工事の店に「1カ月だけ世間の空気を吸わせてくれ」と頼みこみ本当にひと月だけ勤めた。そのあとで米朝のもとを再訪し、ようやく入門が許されたのだった。師匠からはまず「桂朝丸」という高座名を与えられている。

米朝門下では、入門すると内弟子として3年間は師匠の家に住み込み、家事を手伝うなどしながら稽古をつけてもらっていた。稽古では師匠が少しずつやってくれる噺を、弟子は続けてそのとおりに話すのだが、覚えの悪いざこばは何度も聞き返すので、たまりかねた米朝から「とりあえずしゃべれ!」と怒られることもしばしだったという。

米朝の一番弟子で1958年にほぼ同時期にほかの師匠から預かった桂米紫(三代目)と月亭可朝は例外として、1961年に入門した桂枝雀からは、すべての弟子が住み込みの内弟子を経験している。時代を追うごとに、弟子が師匠宅に通いながら修業する一門も増えていったが、そのなかで米朝一門だけは住み込みの習慣を続けた。自らは弟子をとらなくなって以降も、弟子の桂吉朝門下の孫弟子たちが米朝宅に住み込んで修業している。そうやって育てた弟子は孫弟子まで含めると50名を超えるという。

大勢の弟子を育てたことは、米朝の功績の一つである。そもそも上方落語(大阪落語)は、戦後、風前のともしびであった。その再興に尽力した米朝は、「上方落語、中興の祖」とも呼ばれる。ラジオやテレビへの出演、東京や地方での公演も積極的に行なった。米朝の果たした役割として「上方落語を関西ローカルの芸能から全国区の芸にしたこと」をあげるのは、彼と親交のあった落語作家の小佐田定雄である。

師匠から学んだ弟子の指導法

米朝が上方落語を全国に広めることができたのは、彼が生粋の大阪人でなかったからだと小佐田は指摘する。

米朝が生まれたのは1925年、当時日本の租借地だった中国・大連である。本名は中川清。父親は郵便局長だったが、清が5歳ぐらいのとき、亡くなった祖父に代わり実家の神社を継ぐため郷里の兵庫県姫路市に一家で戻った。

《コテコテの大阪人だと、よその土地でわかりにくい言葉や風習でも、/「これは、昔からこうやさかい変えんでもええんや」とそのままで押し通したことだろうと思う。大連で生まれて兵庫県姫路市で育った米朝師は、「上方落語」を距離感を持って冷静に見ることができたのではなかろうか》(小佐田定雄『米朝らくごの舞台裏』

大阪や上方落語に対して距離をもって見られたのは、地元の旧制中学を卒業後、大東文化学院(現・大東文化大学)に入学し、青春時代を東京ですごしたことも大きかったはずだ。在学中には作家で演芸評論家の正岡いるるに弟子入りしている。少年時代から父に連れられ芝居や演芸に親しんでいた米朝は、まず研究者として落語の道に入ったのである。

戦時中には兵役にとられるも、入隊後すぐ病気で姫路に帰ってくる。終戦を迎えたのは、陸軍病院のベッドの上でだった。退院後は復学せず、しばらく職を転々とした末、神戸にある雑貨の卸会社に就職する。サラリーマン生活を続けながらも落語について忘れたことはなかった。大阪で五代目笑福亭松鶴しょかくが落語会を再開したと聞きつけると、自分も姫路に松鶴を呼んで会を開いた。その後も回を重ね、そのたびに米朝自身が観客に演目の解説を行なった。だが、やがて何か満たされないものを感じ、自分も高座に上がりたいとの思いが頭をもたげるようになる。ついに彼は四代目桂米團治よねだんじに入門する。1947年のことだ。ほどなくして中川青年は「米朝」の名を与えられる。

しかし、米團治は米朝の入門からわずか4年後の1951年に急死してしまう。これ以後、米朝は、先輩の落語家やほかの一門の師匠から稽古をつけてもらいながら修業を続けた。その経験から彼は、いかに米團治の稽古が理詰めで丁寧なものだったかをあらためて思い知ったという。《言葉の意味や正しい言い回しなどまで、実に細かく指導する(中略)師匠の理に叶った考え方や演じ方は》のちに自らも師匠となる米朝に大きな影響を与えたのだ(『桂米朝 私の履歴書』)。

米團治と前後して、前出の五代目松鶴など戦前からの上方落語の名人があいついで死去している。1953年に二代目桂春團治が亡くなったときには、新聞に「上方落語が滅んだ」と書かれたという。大阪ではすでに戦前から落語は漫才の人気に押されて衰退しつつあり、その存続がますます危ぶまれた。このころ《上方の落語は引退間近のご老体が五、六人、若手も十人足らず》という心もとない状況のなか(週刊朝日編集部編『語るには若すぎますが』)、米朝はどうしても上方落語を残したいとの思いを強くする。ここから彼は同時期に入門した六代目松鶴・五代目桂文枝・三代目桂春團治らとともに芸の継承に力を注いだ。その甲斐あって1970年前後には、上方落語のブームが巻き起こるまでにいたった。貢献者である米朝たちはいつしか「上方落語四天王」と称されるようになっていた。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

mztaks 近藤正高さんが抑制の効いた手際で米朝の生涯と業績をまとめた良記事。 https://t.co/oAfQcoeguy 4年以上前 replyretweetfavorite

ugainovel 【《言葉の意味や正しい言い回しなどまで、実に細かく指導する(中略)師匠の理に叶った考え方や演じ方は》のちに自らも師匠となる米朝に大きな影響を与えた】 4年以上前 replyretweetfavorite