○新建築と古建築
前回の連載でとりあげた川添登は、専門雑誌『新建築』の編集者として活躍していた。とくに1950年代半ばの誌面は、現在では考えられないような大胆な内容と構成だった。
ひとつは建築の活発な議論の場であったこと。辛辣な批判や罵倒も含めて、あらゆる考え方が掲載されている。そしてもうひとつは、雑誌のタイトルがそのまま示すように、新しい建築を紹介するメディアであったにもかかわらず、「伝統」、あるいは「古典」という記事のタイトルで、日本の古建築を巻頭で継続的にとりあげていたことだ。
その背景としては、この時期、丹下健三の広島平和記念資料館(1955)、東京都旧庁舎(1957)、香川県庁舎(1958)などが次々と登場し、戦後の新しいモダニズム建築が花開いたことがあげられる。そして『新建築』1955年1月号は、「伊勢神宮の内宮・正殿及び宝殿」をトップでとりあげた後、丹下健三の作品群が続く。まさに雑誌の編集によって、新旧の建築を同一の平面上にのせて、巧みに関係づけている。以下に『新建築』から、具体的な事例を列挙しよう。
『新建築』1954年3月号は、渡辺義雄の写真によって、巻頭で正倉院を紹介した。1955年7月号の巻頭は室生寺の五重塔、1956年1月号の表紙と巻頭は建築家の岸田日出刀が撮影した京都御所、1957年4月号の表紙は江戸城の石垣、「古典」は石元泰博の撮影による修学院離宮の庭だった。撮影者もユニークで、錚々たる顔ぶれである。
『新建築』左より、1954年3月号、1956年1月号、1957年4月号
巻頭としては、1956年3月号で如庵と孤篷庵、5月号が金閣、10月号が三十三間堂、11月号が清水寺(表紙は銅鐸)、1957年1月号が法隆寺(表紙も)、2月号が西芳寺湘南亭を掲載している。単に写真で紹介しただけではない。1956年2月号の巻頭は飛雲閣であり、堀口捨己が解説を執筆し、1956年6月号の「古典」は日本の庭であり、岡本太郎がテキストを寄せた。また巻頭ではないが、1957年5月号は東大寺南大門、6月号は東大寺三月堂、1956年4月号は目次のページに五箇山の民家の写真がある。なお、川添が会社を辞めた後も、1958年1月号が春日大社、4月号が合掌造、5月号が東京・武蔵野中部の古民家をとりあげた。すなわち、『新建築』では、日本建築史のオールスターから民家まで、幅広く紹介していたのである。 モダニズムの登場は、一般的に過去の歴史を切断し、新しい構造や素材を使い、近代化された社会に応じて、新しい建築を生みだしたと説明されている。少なくとも西洋においてモダニズムは、古典主義やゴシックなどのリバイバルが流行した19世紀という前提からの離脱を意味していた。
その一方で、近代は建築の通史が執筆された時期でもある。例えば、ニコラウス・ペヴスナーやジークフリート・ギーディオンが主著を刊行した。日本でも、太田博太郎が1939年に『日本建築史序説』(彰国社)を書きはじめ、1947年に初版が刊行されて以来、現在に至るまで版を重ねており、定番になっている。同書では、「簡素清純な表現」、「無装飾の美」、「構造のもつ力学的な美しさ」など、モダニズムと共通した価値観を日本建築に見出していた。川添の『新建築』にも同じような意図があった。
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