第8回】銀河系最大の謎 妻エリコ

NASAで働く日本人技術者、小野雅裕の《最大の謎》それは妻!?最先端技術で宇宙開発をしている小野が、銀河系最大の謎のひとつと称する妻との日々を、鋭い観察眼と分析を織り交ぜながら語ります。今回は数回にかけて宇宙人生《妻編》を連載します――

 宇宙は謎に満ちている。その謎を解くために遠くの星へ送り込む探査機を開発するのが、僕のNASA JPLでの仕事であり、また僕の人生をかけた情熱でもある。

 しかし、銀河系最大の謎のひとつが、非常に身近にある。いや、いる。僕の妻である。

 星を見に行こうと誘っても「眠いし寒いし面倒」なんていうロマンのかけらもない女性なのに、なぜか好きになってしまった。料理は作るよりも食べるほうが得意だと言って憚らないお調子者なのに、なぜか結婚したくなってしまった。夢や情熱よりも銀行口座の預金残高のほうが気になる極めて現世的な人間なのに、なぜか僕の夢の実現を大きく助けてくれた。

 謎は解かねばならぬ。それが僕の哲学である。そこで本連載の向こう数回にわたって、この妻の謎を探査し、解き明かしていこうと思う。

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 妻のエリコは留学先のMITのクラスメイトだった。勢いで付き合い始め、その半年後に勢いで公開プロポーズし、その10日後に結婚した。(駆け込み婚の詳しい経緯は著書や記事に書いたので省略する。)

 エリコの特徴その1。とにかくよく喋る。とめどなく喋る。果てしなく喋る。前世はラジオか何かだったに違いない。大学の頃、授業中にペチャクチャペチャクチャと喋りゲラゲラゲラゲラと笑っていたら、先生に「おいそこのゲラ子!」と怒鳴られたそうだ。僕もよく喋る方なのだが、夫婦の会話における妻のボール支配率は8割に達する。彼女には「一卵性親子」の母親がいるのだが、留学中は毎週5時間もスカイプで喋っていた。

 なぜこれほどまでに喋るのか。付き合い始めた頃は大きな謎だった。しかし、喋る妻を客観的に観察するうちに、そのメカニズムがだんだんと明らかになってきた。

 彼女の頭の上には目に見えない大きなバケツがある。職場や学校で何かをしたり、誰かと話して新たな情報を仕入れるたび、そのバケツに「話したいこと」が溜まっていく。そうして家に帰る頃には、そのバケツには溢れんばかりに情報が溜まっている。



それを一気にぶちまけるように母親や旦那に喋るわけだ。そしてバケツが空っぽになると、スッキリした気分になり、気持ちよく風呂に入って床に就くというわけだ。

 僕は根本的に記憶力が欠落している。論理脳はあるのだが、その分、記憶脳が絶望的に足りない。大穴のあいたバケツである。だから彼女が毎日話す膨大な量の情報を覚えていられるわけがない。事実、僕が過去に付き合っていた人を怒らせた理由の断トツ一位は、話したことを忘れたからだった。

「どうして覚えてないの?つまり私の話すことに興味がないのね」

と悲しい顔をされる。必死で謝り、言い訳をし、なんとか機嫌を直し、やっと会話が弾むようになったのもつかの間、その会話を翌日にはまた忘れ激怒される。俗に言う「無理ゲー」、あるいは賽の河原の石積み刑である。

 なぜ彼女たちが怒るのかを冷静に分析しよう。それは話す理由にある。つまり、彼女たちは聞いてもらいたいから話す。だから相手が自分の話を聞いていないと思うと悲しくなる。当たり前である。

 しかしエリコは違う。彼女は話したいから話す。相手が聞いているか聞いていないかはあまり大きな問題ではない。だから僕が忘れても彼女は怒らない。むしろ喜んで同じ話を二度、三度としてくれる。彼女はたくさん話せて幸せ。僕も忘れていたことを思い出せて幸せ。夫婦円満の秘訣、その一である。

 そろそろ妻を褒めなくては検閲を通らなさそうなので、ひとつ褒めておこう。留学中、彼女は外国人の友達を作るのが非常に上手だった。さぞかし英語がお上手なのでしょうと思われるかもしれないが、その真逆である。純然たる日本人で帰国子女でもない。sとshやtとtsの発音をいまだに混同する、完全な日本人英語である。

 日本人の多くは、外国人とコミュニケーションが取れない理由を、発音が悪いからだと思っている。しかしそれは必ずしも正しくない。自ら喋らないからだ。日本人は「恥」や「遠慮」の感情が強い。だから発音の悪さを引け目に感じて積極的に発言するのを控えたり、会話に割り込むのを遠慮したりする。

 エリコの場合、喋りたいという根源的欲求が、恥や遠慮の感情を圧倒的に凌駕している。だから発音の悪さなんて気にもせずに喋る。喋りたいことを気兼ねなくペラペラペラと喋り、ゲラゲラゲラと笑う。そしていつのまにか友達になっている。実は僕自身もコミュニケーションに悩むことが多くあった。ベタベタの日本訛りで楽しそうに喋るエリコを見て、ああなるほどなあ、と思った。

 エリコの特徴その2。よく食う。だから、僕がエリコの心を掴むために取るべき作戦は自明だった。餌付けだ。留学当時、僕はMITのすぐ隣のアパートの部屋を3人でシェアしていて、エリコは自転車で10分ほどの場所にある学生寮に住んでいた。電話をし、

「今日、肉ジャガを作ったんだけど、来る?」

と聞く。断るわけがない。すぐに尻尾を振ってやってくる。たらふく食べさせ、心ゆくまで喋らせれば、もうニコニコご機嫌である。ちなみに本人はこれを理にかなった行動だと主張する。曰く、食べる量を減らしてカロリー制限をする代わりに、たくさん喋ってカロリーを消費しているそうだ。

 しかし、いくら餌付けが成功したとはいえ、よくこんな「格差婚」がうまくいったものだと思う。エリコは数年働いたあとに職場から派遣されて留学に来た、俗にいう「キャリアウーマン」だった。一方の僕は28歳にして純然たる博士学生。社会に出たことなど一度もなかった。アメリカの大学院生は給料をもらえるが、彼女に比べればはるかに薄給。そのくせ口だけは大きかった。まだ面接も受ける前から、将来はNASAに行くのだと皆に公言していた。

 「よくまあそんなのと結婚したねえ」と僕は冗談で聞いたことがある。彼女曰く、「大物感」を感じたらしい。一体全体、どこからそんなものを感じたのかわからない。お偉方が居並ぶミーティングでも平気で居眠りする図太さか、アフリカで川に落ちて3針縫う怪我をして帰ってくる生命力か、500ドルの小切手を風に飛ばされても平然としている鈍感力か(これは後に激怒された)、あるいは声の大きさ態度の大きさを人間の大きさと勘違いしたか。とにかく、彼女にとってこの結婚は「ポテンシャル採用」だったようだ。

 ならば僕はポテンシャルを開花させなければ首を切られてしまう。そんなわけで僕はロサンゼルスにあるNASAジェット推進研究所(JPL)へ面接に行き、アメリカの永住権を申請したという話は、著書に書いた通りである。

 面接の結果がなかなか来ずに待ちくたびれているうちに、別れの時がやってきた。エリコは留学期間を終えて東京の職場に戻る。一方の僕はまだ博士課程を終えてなかったし、その後もJPLに就職してアメリカに残る気でいた。いつ終わると知れない「遠距離婚」になるわけである。

 さて、話を進める前に説明しておかねばならないのが、エリコの特徴その3、喜怒哀楽が非常に大げさであるという点である。喜ぶときはマンガのように本当にピョンピョンと飛び跳ねる。怒るときは火山のように手のつけようがない。哀しむときはノアの洪水のように泣く。そして楽しいときにはカリフォルニアの太陽のようにニコニコと笑う。(僕はこの笑顔がとりわけて好きだ。)

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宇宙人生—NASAで働く日本人技術者の挑戦

小野雅裕 /小山宙哉

世界で唯一、太陽系の全ての惑星に探査機を送り込んだ機関があります。それは、NASAのJPL(ジェット推進研究所)という組織。そんな宇宙探査の歴史を切り拓いたともいえるJPLで働く技術者・小野雅裕さんが目指すものとはーー。『宇宙兄弟』ス...もっと読む

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