第三章 《ヴェニスに死す》症候群(3)

日常がいきなりなくなる場所に自分はいる。そう認識するしかない事態が起こった洋子。自分がなぜイラクに戻ってきたのかを考える中で、蒔野との会話の記憶がよぎる……。

 テロだということは、すぐにわかった。外の様子を知ろうと耳を澄ませたが、聞こえてくるのは混乱しきった言葉の断片と、非常階段を駆け下りる押し黙った跫音だけだった。

 洋子は、武装勢力が、建物を占拠しようとしているのではと考えた。そういう事態のシミュレーションを、つい最近も確認したところだった。逃げ遅れれば、人質にされてしまう。爆発直後の動揺は、焦燥に駆られた恐怖に転じた。避難通路を思い出しながら、彼女はとにかくフィリップに電話をした。

「大丈夫か?—ヨーコ、ダイジョブ?」

 あの時にも、彼にそう呼びかけられたのだった。それから、自爆テロらしいが、後続のテロリストたちが雪崩れ込んできているという状況ではないと説明された。励ましの言葉をかけられ、一旦は安心したものの、そのまま電話は切れてしまった。そしてその後、一切連絡が取れなくなった。

 洋子は、エレヴェーターの奥の角に座り込んで、せめて左右の壁に体を支えてもらった。今でもエレヴェーターに乗る度に、無意識にその場所を見てしまう。顔を両手で覆って、閉ざした瞼の内側に逃げ込んだ。その暗がりにだけ、僅かに身の置き場があった。

 不安の底で、彼女は一心に祈った。信仰がないので、父や母を思い浮かべながら、助けてと呼びかけ続けた。そしてやはり、何かそれ以上の力に向けても祈っていた。

 なぜイラクに戻って来てしまったのかと、彼女は考えた。一度目の赴任では、無事に帰国できていたのに。—なぜ?……過去の記憶が無闇に溢れてきたが、何を選び、何に留まるべきかはわからなかった。混乱の中、東京で蒔野と交わした会話が脳裏を過ぎった。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

 その言葉自体が、今は、あの夜にはなかった残酷な響きを帯びていた。彼とも、もう会えないのだろうか? そう思うと、あの夜、スペイン料理店で過ごした時間が無性に愛おしく感じられた。

 彼女はそれから、取材ノートを取り出して、自分の置かれた状況の記録をつけ始めた。日本語で書いた。気持ちを落ち着かせるためだったが、後に記事を書く際にも参照した。そして、時々また、なぜ自分はイラクに戻って来てしまったのかと考えた。それは自分の意志だったはずだが、もし結末が悲劇的であるなら、何かもっと運命的な必然に無抵抗に拉し去られてしまったようにも感じられた。

 エレヴェーターのドアが開いた時、そこで待っているのが本当にフィリップたちなのか、それとも武装組織なのか、最後の最後まで、わからなかった。

 会議用に使用している部屋で、洋子はフィリップとコーヒーを飲んだ。

「ジャリーラが、君の帰国が早まるんじゃないかって、寂しがってた。」

「ああ、……それで。」と洋子は納得したように頷いた。「コーヒー淹れてたら、後ろからじっと見てるから、びっくりして。」

「あと何日?」

「え?」

「パリに戻るまで。」

「あと、……ん? 二週間?」

 フィリップは、煙草を一服しながら、少し目を細めて言った。

「切ってるよ。三月二日だろう、今日は? もうちょっとだ。五週目に入ると、みんな保たなくなってくる。ヨーコだけじゃない。予定では、二週間の休暇後、四月一日からもう一クールということになってたが、それは無理だろうと本社と話し合った。君のイラク取材は終わりだ。朝食のヒドい“イングリッシュ・ケーキ”も、もう食べなくていい。」

 洋子は、その淡々とした告知を黙って聞き、やや間を置いてから受け容れた。必ずしも予想外というわけではなく、安堵と無力感とが綯い交ぜになっていた。

「あのパウンド・ケーキの味は、きっと忘れられないわね。」

「恋しくなった時のために、レシピをメモして帰るといい。」

「遠慮しておくわ。—最初のクールのあと、パリに戻った二週間で、うまく気分転換ができなかった。ニュースを気にしてたし、原稿も書いてたから。こっちに戻って来てからも、失敗したなってずっと思ってた。保つかしら、あと六週間って。そしたら、あの自爆テロが起きて。……わたし、あと一分長くロビーにいたら死んでた。たった一分。—恐怖もあるけど、時間の中で自分が生きてるってことが、よくわからなくなる。」

「なぜあの時、あの場所にっていうのは、戦地の感覚だな。わかるよ。」

「本当はあと一つ、インタヴューの質問が残ってたの。イラクの今後の見通しについて。—でも、それは他の質問で答えが出てたから、もういっかって。相手もインタヴューを終わらせたがってたし。わたしが引き留めなかったら、彼は逆に死なずに済んでたかもしれない。」

「いずれにせよ、もうしばらくはあそこにいたよ。他の人たちが残ってたんだから。—君は、自分の運を信じることだ。君はここで死ぬ人間じゃないってことだよ。」

 気休めとわかっていても、洋子は、フィリップのその言葉に慰めを感じた。そして、「ええ、そうね。」と頷くと、気を取り直して続けた。

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マチネの終わりに

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