ホテルの七階のオフィスでは、六人のRFP通信の駐在員が、現地採用の十数名のスタッフと共に仕事をしている。
爆発音に、恐らく何人かは気づかず、気づいた者のまた何人かはパソコンのモニターから顔を上げなかった。そして、誰からともなく数名は、気づいたというより、気が散ったといった様子で窓に目を向けた。違っていたのは、洋子一人が、いつまでも外を見たままだったことだった。
バグダッドに赴任して、洋子は、昔地理の授業で習った〈砂漠気候〉というのを、初めて身を以て知った。事前の想像にはなかったが、バグダッドは風の強い町だった。それも、東京のように、高層ビルにぶつかって癇が立ったような風とは違い、荒涼とした無人の土地を吹き抜けてきた、乾いた大波のような風だった。
一度、現地のスタッフに、バグダッド上空には、一日に何トンくらいの砂が舞っているのかと尋ねてみたことがあった。大気中に拡散している分を集めると、思いもかけない重さになるだろうと考えたのだったが、妙なことを訊く人だという顔で、笑って首を傾げられただけだった。
その風が、日々の爆発の黒煙を、掃除夫のような馴れた面持ちで片づけてしまう。が、規模が大きかったのか、今上がっている煙は、容易には絶えない。まるで逆さまに水に浸されているこの悪夢のような世界に、誰かが死の黒いインクを垂らし続けているかのようだった。
「——ダイジョブ?」
洋子は不意に、まるでたった今呼びかけられたかのように、振り返って傍らを見上げた。大きな傷跡のある頬に栗色の無精髭が伸びたフィリップがデスクの小脇に立っている。こちらの精神状態を見極めようとしているのを、彼の目から察した。
「ええ、大丈夫。ありがとう。——本当に大丈夫だから。どうしたの?」
そう言って微笑むと、自分のデスクに戻ろうとしない彼に、「コーヒーでも飲む?」と自分から席を立った。
「ありがとう、淹れるよ。あっちの部屋で、少し話そう。」
「ううん、気分転換にわたしが淹れるから。持って行く。」
洋子は、窓辺に置かれたコーヒーメイカーが温まるのを待ちながら、椰子の木が生い茂る広大な庭園プールをぼんやりと見下ろした。
典型的な高級リゾート・ホテルの造り。三つの円を組み合わせた凝ったデザインのプールの傍らでは、野ざらしにされた白いベンチが朽ちかかっている。敷き詰められたタイルの目地からは、濃い緑色の雑草が我が物顔で伸びている。
飼い主の手を離れて、野生化した時間の群れ。かつてはその一帯に、推理小説でも読みながら、ピニャコラーダを飲み、肌を焼く人々が溢れていたのだった。
「警備会社が一番楽に稼ぐ方法は、危険だと言って、我々をここに閉じ込めておくことだ。もちろん、危険だ。けれども、それに従うばかりじゃ仕事にならない。ここで暮らしている人たちがどんな思いでいるのか、直接会って話を聞かなければ、政治状況の分析をやってみても、肝心なことが抜け落ちてしまう。」
それが、支局長のフィリップの考えだった。
洋子も含めて、多くの駐在員は、中東の専門家でも戦争報道の専任でもなく、各地の支局から集められて、短期的にバグダッドに赴任しているに過ぎなかった。
が、フィリップは違った。長くアフリカの紛争地帯を取材し、イラクにはアメリカ軍の侵攻が始まった二〇〇三年から出入りしている筋金入りで、有名なフセインの銅像が倒される場面にも立ち会い、時々請われてその裏話を語った。六週間の勤務と二週間の休暇という、比較的安定して機能しているローテーションも、彼が導入したものだった。
同じホテルに入る他国のプレスの中には、取材の一切を現地採用のスタッフに任せているところもある。フセイン政権崩壊後、最悪の治安状況にある今のイラクでは、それとて必ずしも保守的すぎるとは言い切れない。しかし、RFPは、フィリップの判断の下、乏しい機会ながら記者自身によるバグダッド市内の取材を継続していて、洋子も数回、その緊張を経験していた。
無論、それとてアメリカ軍の厳重な警護があればこそである。
車で目的地へと直行する途中で、車窓から、瓦礫の山や弾痕だらけの壁を眺める。行政サーヴィスの多くが停止しているので、溢れ出したゴミを、みんな通りで焼いている。その臭いから、何とか生活の実感を掴もうとする。
町を自由に歩き回り、ふらりと入ったカフェで、現地の住民と気楽な談笑が出来たなら、どれほど豊富な感情に触れ、濃やかな生活の色彩を目にすることであろうか。
ステンレスのポットに溜まってゆくコーヒーの音を聞きながら、洋子は、その微かな香りを愛おしむように嗅いだ。ドイツ製のコーヒーメイカーで、ポット内に香りを閉じ込め、逃がさない構造となっているが、洋子はガラスのカラフのコーヒーメイカーが、部屋をいっぱいに満たすあの香りを懐かしんだ。取り分け、ここのようにコーヒー自体が貴重な場所では。
顔を上げた時、彼女は不意に、窓の向こうから、無言でこちらを見ている人に気がつき、戦慄した。窓の外ではなく、ガラスに人影が映っている。身構えるように背後を振り返ると、現地の若い女性スタッフが、その勢いに驚いて、きゃっ、と飛び上がりそうになった。
その声に、洋子は我に返った。そして、激しい動悸を鎮めようと胸に手を宛てがうと、「ジャリーラ、……どうしたの?」と、表情を崩して小首を傾げた。
「写真のチェックをお願いしたいんですけど。」
「ああ、……それね。……角度がよくないのよね。通りの反対の緑が入ってないと、あのあたりの雰囲気はよくわからないのに。……あ、こっちね。これで。ここをちょっと切って。」
「はい、そうですね。カメラマンにも言っておきます。」
ジャリーラは、バグダッド大学出の映像作家志望で、今はここのオフィスで、写真や動画の編集を手伝っていた。
女性は彼女と洋子だけなので、空き時間には、二人でよくファッションや映画についての雑談をしている。
ブリトニー・スピアーズのモノマネが得意で、つい先日も、《トキシック》のPVのパロディで、スタッフらを大笑いさせていた。十日前に、一階のロビーで自爆テロ事件が起きて以来、そんなに笑ったのは初めてだった。
ジャリーラは、洋子のことを、歳上のいとこか何かのように慕っていた。
洋子の美貌と理知的な仕事ぶりを、ジャリーラは、「かっこいい」と感じていて、他方で、父親がカンヌで賞を獲るような著名な映画監督だという噂にも興味津々だった。作品自体は見たことがなかったが、洋子の父なら立派な監督に違いなく、その娘であるからこそ洋子もやはり立派なのだという独自の循環論法で、憧れの気持ちを一層膨らませていた。
洋子は先ほど、窓に映っていたそのジャリーラの目から、どういうわけか、十日前のその自爆テロの記憶へと引き摺り込まれそうになっていた。それに抵抗し、すんでのところで、現在という時間に踏み止まったのだった。
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