バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 虚構と演技

アカデミー賞受賞で注目がさらに高まったマイケル・キートン主演、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を今回の「およそ120分の祝祭」では取り上げます。演じることの意味についての考察、ぜひご一読ください。

本年度アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞の主要四部門を独占した話題作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は、栄光の座から転落した男が、再起へ向けて奔走する姿を描いた物語である。90年代に、スーパーヒーロー映画「バードマン」の主役として世界的スターの地位にあった主人公は、それいらい20年、ヒット作もないまま長い低迷の時期にあった。彼はキャリアの復活を賭けて演劇の世界に身を投じ、米作家レイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」の舞台化を計画するのだが、キャスティングや役者のエゴ、資金繰り、訴訟問題などのトラブルに悩まされ、準備はおもうように進まない。辛辣な演劇批評家、家族からの手厳しい叱責、公演の初日が近づくにつれて高まる不安と戦いながら、舞台はついに公演の初日を迎える。

映画はほんらい、スクリーン上で展開される虚構の物語だが、同時にスクリーンを突き破り現実へと到達するほどのエネルギーを持った表現でもある。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の魅力は、作品が虚構であることをかなぐり捨てて、ダイレクトに観客へ襲いかかるような力を持っていることだ。役を演じる、ストーリーを説明するという映画の決まりごとを超えて、スクリーン上に現れる一人ひとりの人物が、あたかも手で触れられそうなほどの実感を持って現れるのである。

この新鮮な驚きは、たとえば、初めてリュミエール兄弟の映画を見た日本人女性の経験に似ているかもしれない。兄弟の映画は1897年に初めて日本でも上映されたが、当時彼らの作品を見たとある女性は、その映像に強く反応したという。女性は「消火活動を記録した映画を見たあと、あれほどホースから飛び出ていた『水』が舞台に一滴もこぼれていないことをどうしても納得できなくて、しきりに舞台上を調べていた」*1。世界最初の映画観客であったその女性は、単にナイーブで無知なだけだったのか。私は違うとおもう。「なぜ舞台上に水がこぼれていないのか」と感じさせるほどに映像が躍動していたとすれば、それはまさに映画の可能性そのものではないのか。

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およそ120分の祝祭 最新映画レビュー

伊藤聡

誰しもが名前は知っているようなメジャーな映画について、その意外な一面や思わぬ楽しみ方を綴る「およそ120分の祝祭」。ポップコーンへ手をのばしながらスクリーンに目をこらす――そんな幸福な気分で味わってほしい、ブロガーの伊藤聡さんによる連...もっと読む

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コメント

hal_31 この記事読んでスッキリした。そう、入れ子構造が鍵なんだ。 5年以上前 replyretweetfavorite

hiro_e060 これとても分かりやすい。 5年以上前 replyretweetfavorite

okbc99 “主人公は、客の前で役を演じ、バックステージで共演者と口論になり、楽屋へ戻って自分ひとりになり、家族と真剣に会話をし、観客はそのすべてを途切れることなく目撃する。” 5年以上前 replyretweetfavorite

gorori0225 早く「バードマン」観ないといかんな!→ 5年以上前 replyretweetfavorite