大義のため敵対する相手とも手を組む
《未来を予想するのはそうたやすいことではない。(中略)将来、何が起こるのかを知りたければ、どのような力が働いているのかを理解しなければならない。そして、自分の立ち位置を決めたうえで、それらの力を自分にとって有利に働かせるよう試みるのだ》
これはシンガポールの「建国の父」と呼ばれる元首相、リー・クアンユー(2015年3月23日没、91歳)の1956年の発言だ(リー・クアンユー『リーダーシップとはなにか』)。当時33歳だったリーは、労働組合の顧問弁護士として活躍するとともに、その2年前にはイギリスの直轄植民地だったシンガポールの独立をめざして人民行動党(PAP)の設立に参加している。
第二次世界大戦後のシンガポールでは、イギリスだけでなく、反植民地運動の機運の高まっていた隣国のマラヤ連邦(現在のマレーシアの一部。1957年にイギリスから独立)やインドネシアの力が大きく働いていた。そのなかでシンガポールはどのように立ち位置を定め、それらの力を独立に向けて有利に働かせるべきか。先のリーの言葉は、彼が独立運動に邁進するなかで見出した信条であったのだろう。
リーは人民行動党の結成にあたり、敵対する共産主義勢力と提携を図っている。同勢力の持つ強い支持基盤を利用するためだが、下手をすればリー一派が喰われかねないこの選択を人民行動党の創立メンバーの一人は「虎の背にまたがって」と表現した。果たして1959年の総選挙で人民行動党は圧勝を収め、シンガポールはイギリス連邦内の自治領となり、リーはその初代首相に就任したのである。
政権を掌握したリーは、マラヤ連邦との統合を画策する。かつてシンガポールに富をもたらした中継貿易は衰退しつつあり、工業化が急務であった。マラヤはその市場として絶対に確保せねばらないと考えられたのだ。こうして1963年、シンガポールはマラヤのほかサバ、サラワクと統合してマレーシア連邦が成立、19世紀以来、第二次世界大戦中の日本占領期を挟み140数年におよんだイギリス支配から完全に脱した。この間、リーは共産主義勢力を党内から追い落とし、自らの権力を揺るぎないものとした。だが、その後のシンガポールの命運はさしもの彼も予期しないものであった。
統合の最大の目的であったマレーシアとの共同市場構想は頓挫し、また、マレー人が多数を占めるマレーシアと、華人(中国系住民)が多数を占めるシンガポールのあいだでは人種の扱いをめぐり意見の相違が生じた。経済的・政治的な対立からシンガポールでは人種暴動もあいつぐ。このためマレーシア中央政府はさらなる惨事を避けるべく1965年8月9日、シンガポールの分離・独立を決定する。
後背地も大きな国内市場も天然資源もなければ、農業・漁業生産もほとんどない都市国家にとって、マレーシアからの分離は存亡の危機だった。リーが「(独立の)協定調印の瞬間は苦痛の瞬間だ」とテレビを通じて涙ながらに発表しなければならなかったのは、そのためである。さらなる試練として、1967年にはイギリスがシンガポールの駐留軍の撤退を決めた。これは安全保障の危機というばかりでなく、それまで英軍基地に関連する産業に大きく依存していたシンガポール経済にとっても大打撃であった。
遺伝を重視した能力主義
マレーシアから分離後のシンガポールに残されたのは人的資源だけであった。リー政権はこれを最大限に利用するべく徹底した能力主義をとる。限られたリソースを少数精鋭の人材に注ぎ込み、将来の指導層として育成を進めたのだ。
人材を選ぶうえでは、本人の能力もさることながら、その家系に優秀な者がいるかどうかも重視された。これというのもリーは「人間の行動の80パーセントは遺伝で決まり、残り20パーセントは教育で決まる」と信じてやまなかったからだ。そうした信念には、リー自身の生い立ちも少なからず影響しているのだろう。
リーは1923年、比較的裕福な中国系商人の家に生まれた。先祖は19世紀にシンガポールに移住した客家(ハッカ)だという。名門ラッフルズ学院に学び、第二次大戦直後には奨学金を得てイギリス・ケンブリッジ大学に留学した。在学中に弁護士の資格を取り、最優秀の成績で卒業し帰国している。実弟や夫人もまた、ラッフルズ学院からケンブリッジ大学へ進んで弁護士となっており、まさにエリート一家であった。リーの子供たちもまたエリート教育を受けて、軍人や医師の道、あるいは政界に進み、長男のリー・シェンロンは2004年より首相を務めている。
もちろんリーが過剰なほど遺伝という要素にこだわったのは、自身の経歴以上に、優秀なエリートを効率的に生み出せなければシンガポールは国際社会で生き残れないという危機感によるところが大きい。1969年に中絶が合法化されたのも、低所得者は養育力に乏しいとの判断から2人以上の子供を持たせないようにするためだとリーは説明した。
もっとも少子化政策はのちに労働力不足を招き、1987年には多産奨励政策への転換を余儀なくされる。ただ、このとき対象となったのはすべての女性国民ではなく、あくまで大学教育を受けた華人女性に絞られ、低学歴女性やマレー人女性は除外された。これもまたシンガポールの知的水準の低下を懸念したリーの意向を反映したものだった。だが、肝心の大卒女性に受け入れられるどころか反発を招き、結局数年で特例措置は撤廃されている。
リー自身ものち2000年には、《今われわれがなすべきは、あらゆるレベルの国民の能力を向上させることにより、それぞれが所属するチームの力を強化して、わが国の企業が世界市場で競争できる財やサービスを生み出せるようにすることである》と、従来のエリート主義を見直すような発言をしている(『リーダーシップとはなにか』)。このときリーは首相をやめて10年が経っていたが、上級相として政権内に残り、まだ国政に大きな影響力を保持していた。
国家統合の軸に英語を採用する
マレーシアからの独立以来、リーは「われわれのような資源の限られた国家では、余分なことに費やされるエネルギーはない」と複数政党制を退け、人民行動党による事実上の一党独裁を長らく続けてきた。だが、リーがいわゆる独裁者と一線を分けるのは、シンガポール政治・社会の長期的安定のため、国民が自発的に国家と一体感を持つことにも力を注いだことだ(岩崎育夫『リー・クアンユー』)。
シンガポールは植民地時代より華人のほかマレー人、インド人など異なる人種・民族で形成されるモザイク社会であった。リー政権はその多様性を認め、互いの価値観を受け入れる融和政策をとった。政府の提供する公団住宅でも、意図的に異なる種族同士が隣り合わせになるよう配置された。そして国民統合の軸として英語を国語に採用し、「英語社会化」が推進されることになる。英語が選ばれたのは、すべての種族集団に対しニュートラルで都合がよいこと、またリーら指導層の共通言語・価値文化であり、さらにシンガポールが国際ビジネスセンターとして発展するには欠かせないという実利的な理由もあったようだ。
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