第113回 迷宮マトリックス(前編)

「根気よく計算すれば、大丈夫です!」とテトラちゃんは言った。
登場人物紹介
:数学が好きな高校生。
テトラちゃんの後輩。好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。
$ \newcommand{\MATAWA}{\mathrel{\text{または}}} \newcommand{\KATSU}{\mathrel{\text{かつ}}} \newcommand{\LEFTRIGHTARROW}{\quad\Longleftrightarrow\quad} \newcommand{\LEFTARROW}{\quad\Longleftarrow\quad} \newcommand{\RIGHTARROW}{\quad\Longrightarrow\quad} \newcommand{\MAT}[4]{\left(\begin{array}{cc} #1 & #2 \\ #3 & #4 \end{array} \right)} $

図書室にて

「……という話をユーリにしていたんだよ(第111回第112回参照)」

テトラ「ユーリちゃんってすごいですねえ……行列もこなしちゃうんですか」

「こなすというか、計算のルールを適用するだけだからね。テトラちゃんも行列の計算はできるじゃないか」

テトラ「えっ、あっ、はい……以前、三角関数の加法定理を学んだときに、先輩とミルカさんから教えていただきました(丸い三角関数参照)。 でも、それ以上はあんまり……」

「うん、あのときは行列の積の話もしたよね」

テトラ「はい。いちおう計算はできます……できると思います」

「零行列は $0$ みたいなもので、単位行列は $1$ みたいなもの、という話はしたっけ?」

テトラ「零行列は $\left(\begin{array}{cc} 0 & 0 \\ 0 & 0 \end{array} \right)$ で、単位行列は $\left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 0 & 1 \end{array} \right)$ ですよね」

「そうそう。零行列は大文字の $O$ (オー)で表すことが多くて、単位行列は $I$ (アイ)や $E$ (イー)で表すよね」

$$ \begin{align*} O &= \left(\begin{array}{cc} 0 & 0 \\ 0 & 0 \end{array} \right) \\ I &= \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 0 & 1 \end{array} \right) \\ \end{align*} $$

テトラ「 $O$ と $I$ ですか。なるほどです」

「そうすると、任意の行列 $A$ に対して、 $OA = O$ や $IA = A$ のように書ける。 $O$ は $0$ に、 $I$ は $1$ に見立てることができるから楽しいよ。 ちょうど、 $0a = 0$ や $1a = a$ と書くのとそっくり」

$$ \begin{array}{rclcrcll} OA &=& O & \qquad & IA &=& A & \qquad \text{行列} \\ 0a &=& 0 & \qquad & 1a &=& a & \qquad \text{数} \\ \end{array} $$

テトラ「ほんとですね。こういうのは楽しいです!」

交換法則

「行列は数のように計算できるけど、ぜんぶが同じわけじゃなくて、たとえば有名な話として《行列の積では交換法則が成り立たない》というのがあるよ」

テトラ「交換法則が成り立たない……交換できないということでしょうか」

「そうだね。行列 $A$ と行列 $B$ の積 $AB$ を考えたとき、この $A$ と $B$ は交換できない。 つまり $AB$ が $BA$ と等しいとは限らないということ」

行列の積では交換法則が成り立たない
任意の行列 $A,B$ に対して $AB = BA$ が成り立つとは限らない。

テトラ「数ならば $ab = ba$ だけど、行列ならば $AB \neq BA$ ということですか……なるほどです。 あれ? でも先輩、おかしいですよ?」

「何がおかしいの?」

テトラ「単位行列 $I$ を使うと、 $IA$ も $AI$ も $A$ になりますよね。だったら、 $IA = AI$ ではないんでしょうか」

「ああ、そうだね。確かに $IA = AI$ は成り立つよ。さっき言ったけど、 $AB$ が $BA$ と等しいとは限らない。 《等しくない》じゃなくて、《等しいとは限らない》だから、 $AB$ が $BA$ と等しくなることもあるんだ」

テトラ「そういうことなんですね」

「数の積で交換法則が成り立つというのは、正確にいえば、どんな数 $a,b$ に対しても $ab = ba$ が成り立つということ」

テトラ「どんな数に対しても……はい」

「《どんな数に対しても》は《任意の数に対して》ということもあるよ。行列の積で交換法則が成り立たないというのは、 《どんな行列 $A,B$ に対しても $AB = BA$ が成り立つ》ということはないという意味」

テトラ「えっ?」

「《どんな行列 $A,B$ に対しても $AB = BA$ が成り立つ!……ということはない》。つまり、言い換えるなら、 《 $AB = BA$ が成り立たないような行列 $A,B$ が存在する》という意味だね」

テトラ「それは、 $AB = BA$ が成り立たないような $A,B$ が一組あればいいということですね?」

「そうそう、そういうこと。英語でも"not all"や"not every"で注意が必要だったよね。あれと同じ」

テトラ「ああ!部分否定ですね! 《すべてが○○というわけじゃない》」

「そうだね。行列の積で交換法則が成り立たないというのは、まさにそれだよ。すべての行列で $AB = BA$ が成り立つわけじゃない」

テトラ「理解しました!」

「じゃ、例を作ってみようよ。《例示は理解の試金石》だから、 $AB = BA$ が成り立たない行列の例を作ってみよう。 つまり $AB \neq BA$ となる行列 $A,B$ を見つける」

問題
$2 \times 2$ 行列 $A,B$ で、 $$ AB \neq BA $$ となる $A,B$ の例を見つけよ。

テトラ「な、なるほど。例ですか……ちょっと待ってください。考えます!」

「ちょっと試せばすぐに見つかるよ」

(あなたも、探してみましょう!)

「どう?」

テトラ「たとえば、 $A = \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 0 & 0 \end{array} \right)$ と $B = \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 1 & 0 \end{array} \right)$ というのはどうでしょうか」

「どれどれ?」

$$ \begin{align*} AB &= \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 0 & 0 \end{array} \right)\left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 1 & 0 \end{array} \right) \\ &= \left(\begin{array}{cc} 1\times1+1\times1 & 1\times0+1\times0 \\ 0\times1+0\times1 & 0\times0+0\times0 \end{array} \right) \\ &= \left(\begin{array}{cc} 2 & 0 \\ 0 & 0 \end{array} \right) \\ BA &= \left(\begin{array}{cc} 1 & 0 \\ 1 & 0 \end{array} \right)\left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 0 & 0 \end{array} \right) \\ &= \left(\begin{array}{cc} 1\times1+0\times0 & 1\times1+0\times0 \\ 1\times1+0\times0 & 1\times1+0\times0 \end{array} \right) \\ &= \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right) \\ \end{align*} $$

テトラ「……ですから、 $AB = \left(\begin{array}{cc} 2 & 0 \\ 0 & 0 \end{array} \right)$ で、 $BA = \left(\begin{array}{cc} 1 & 1 \\ 1 & 1 \end{array} \right)$ になり、 $AB \neq BA$ ですよねっ?」

「そうだね。だから確かに行列の積では交換法則が成り立たないといえた」

テトラちゃんが、そこでさっと手を挙げる。

テトラ「先輩! 質問です!」

「何?」

テトラ「行列の《積》では交換法則が成り立ちませんけれど、行列の《和》では交換法則が成り立っていますよね?」

「うん、そうそう、成り立っているよ。行列の和は成分の和だから、和についての交換法則がそのまま行列にも使えることになるんだね」

行列の和では交換法則が成り立つ
$$ A + B = B + A $$

テトラ「これは、えっと、任意の行列 $A,B$ に対して、 $A+B = B+A$ ということですね?」

「そうなんだけど、《 $A+B$ と $B+A$ が定義されている任意の行列 $A,B$ に対して》といった方が正確だね」

テトラ「《定義されている》とわざわざ断る必要があるんですか?」

「そうだね。たとえば、 $A = \left(\begin{array}{ccc} 1 & 2 & 3 \\ 4 & 5 & 6 \end{array}\right)$ と、 $B = \left(\begin{array}{cc} 1 & 2 \\ 3 & 4 \end{array} \right)$ だったら、 $A$ と $B$ の和は定義できなくなってしまうからね」

テトラ「なるほどです。『任意の行列さん、どうぞ!』と言ってしまうと、いろんな行列さんがやって来ちゃうんですね……」

公式

「行列は数と似ているけれど、積の交換法則が成り立たない……だから、数では公式になっているのに、行列では公式にならないものがあるんだ。 たとえば、こんな公式を知ってるよね、テトラちゃん」

$$ (a + b)^2 = a^2 + 2ab + b^2 $$

テトラ「はい、大丈夫です」

「でも、この公式は行列には使えないんだよ」

$$ (A + B)^2 = A^2 + 2AB + B^2 \qquad \text{←これは行列では使えない!} $$

テトラ「へ、へえ……だとすると、行列の公式覚えるのがたいへんそうですね」

「いやいや、公式がどうしてできたかを思い出せば、それほどたいへんではないよ。 $(a + b)^2$ の公式はこうやって作ったよね?」

$$ \begin{align*} (a + b)^2 &= (a + b)(a + b) && \text{ $2$ 乗の意味から} \\ &= (a + b)a + (a + b)b && \text{カッコを外した} \\ &= aa + ba + ab + bb && \text{カッコを外した} \\ &= aa + \underline{ab} + ab + bb && \text{交換法則 $ab = ba$ を使った} \\ &= aa + 2ab + bb && \text{ $2$ 個の $ab$ をまとめて $2ab$ にした} \\ &= a^2 + 2ab + b^2 && \text{ $2$ 乗の意味から} \\ \end{align*} $$

テトラ「いわれてみればそうですね。途中で $ba$ を $ab$ に直すことができるのは、交換法則が使えるから……だから、 この公式が出てきたわけですものね」

「そう。数の場合はね。でも行列の積では交換法則が使えない。だから、この公式 $(a + b)^2 = a^2 + 2ab + b^2$ は行列には使えないわけだ」

テトラ「では、どういう公式になるんですか」

「 $ba$ と $ab$ をまとめる部分が使えないから、行列の場合は、こうなるんだよ」

$$ (A + B)^2 = A^2 + BA + AB + B^2 $$

テトラ「ああ、 $BA$ と $AB$ をそのままにしておくわけですか。これって、あまりうれしくはありませんね」

「そうだね。 $BA$ と $AB$ がまとまらないから」

テトラ「ということは《和と差の積は二乗の差》の公式も行列には使えませんね?」

「ああ、そうだね。 $(a + b)(a - b) = a^2 - b^2$ の公式を証明するときには、 $ab - ba = 0$ つまり $ab = ba$ を使うから」

《和と差の積は二乗の差》
$$ (a + b)(a - b) = a^2 - b^2 $$

「ところで、テトラちゃんは気付いた? さっき行列で $(A + B)^2 = A^2 + BA + AB + B^2$ という公式の話をしたけど、この公式を作るためには、他の法則も必要になるよ」

テトラ「交換法則以外に、ということですか」

「そうだよ。カッコを外すところで《分配法則》を使っているよね。こうなるんだ」

$$ \begin{align*} (A + B)^2 &= (A + B)(A + B) && \text{ $2$ 乗の意味から} \\ &= (A + B)A + (A + B)B && \text{カッコを外した(分配法則)} \\ &= AA + BA + AB + BB && \text{カッコを外した(分配法則)} \\ &= A^2 + BA + AB + B^2 && \text{ $2$ 乗の意味から} \\ \end{align*} $$

テトラ「ははあ……」

「行列では分配法則が成り立つ。だから、数と似た公式が作れる。でも、積の交換法則は成り立たない。だから、数とまったく同じ公式にはならなかったんだね」

テトラ「分配法則……分配法則というのは、カッコを外すための法則なんですね」

「まあ、そうだけど。もうちょっとちゃんというと、 分配法則では二つの演算が出てきて……たいていは、 加算( $+$ )と乗算( $\times$ )だね。 それで、 $a\times (b + c)$ を $a \times b + a \times c$ という形に直せますよという法則。 $\times$ は省略しちゃうから、 $a(b + c) = ab + ac$ だよね」

テトラ「はい、わかります」

分配法則
任意の数 $a,b,c$ および、任意の行列 $A,B,C$ に対して以下が成り立つ。 $$ \begin{align*} a(b + c) &= ab + ac \\ (a + b)c &= ac + bc \\ A(B + C) &= AB + AC \\ (A + B)C &= AC + BC \\ \end{align*} $$

「たとえば、 $(A + B)C$ でいえば、カッコの外にある $C$ を、 $A$ と $B$ に《分配》できるということ」

$$ (A + B)\underline{C} = A\underline{C} + B\underline{C} \qquad \text{ $C$ を《分配》しているようす} $$

テトラ「……」

「ね、そうだよね?」

テトラ「あ、はい……」

「何か、気になることでもあるの?」

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数学ガールの秘密ノート

結城浩

数学青春物語「数学ガール」の中高生たちが数学トークをする楽しい読み物です。中学生や高校生の数学を題材に、 数学のおもしろさと学ぶよろこびを味わいましょう。本シリーズはすでに12巻も書籍化されている大人気連載です。 (毎週金曜日更新)

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chibio6 行列の基礎を思い出してくる。最後の照明の問題、何度か計算間違いをしたけどできた。行列の計算は間違えやすい。 約5年前 replyretweetfavorite