「りんごの皮」結末の意味
『思い出トランプ』は向田邦子が直木賞を受賞することとなった短編集であり、識者の評価としても概ね高い。だが詳細を見ていくと事実関係に不備があったり、書き飛ばしたと思われるような雑な記述もあったり、それらを作品の欠点と見る向きも少なくはない。
しかしそうした否定性は、向田邦子を昭和のロマンと結びつけてしまった偏見による失当でもあるだろう。この作品のディテールは昭和であるが、作品の普遍的な価値と深く関わっているわけではない。作品の背景を現代のニューヨークやロンドン、ベルリンに置いて再構成すれば、その本質が際立つかもしれない。ニューヨーカーに掲載されてもまったく違和感はない作品群である。『思い出トランプ』が海外で評価されていないとすれば、一義に翻訳の怠慢であろう。
以下、同書13点のうち6点の短編について、各結末を含めて考察したい。作品は文学的でもあるが、エンターテインメント的でもあり、どんでん返しとも受け取れる結末もある。未読のかたは、以下結末に触れていることをご了承いただきたい。
第1作「りんごの皮」については、すでに随筆「手袋をさがす」との関連で触れたように、随想のスタイルから小説に移行しようとしている過渡的な作品と見ることもできるが、小説としての技巧性は短編集のなかではもっとも際立ち、映画的な象徴性が多層的に埋め込まれている。
筋は単純に見える。主人公の女の弟が金の工面にやってきて、50歳近い姉の不倫関係の場面に出くわし、その光景を見なかったとして帰宅する弟を女が後で追ってみたが、弟が体現した、自分が持てなかった安逸の家庭の前で立ち去った。その途中、弟の家庭に向かう途中の店でりんごを買うことが象徴の物語への通路になる。
この物語の評価はあまり高くない。結末の意味を取れない読者が多いためだ。弟の住まいから引き返し、買ったりんごを自宅で剥いみたものの、奇妙な行動に出て、物語は終わる。
時子は、りんごの皮を口からぶら下げ、窓の外に向かって、りんごの実をほうり投げた。裸のりんごは、うす墨の闇の中で白い匂いの抛物線を描き、思ったより速く飛んで消えた。時子はそれからゆっくりとりんごの皮を噛んだ。
なぜその不可解な行動をしたのか、作品から十分に示されていないように思えるのも当然だろう。
だが象徴はシンプルである。りんごの実は、弟の人生のような安逸の結婚生活である。赤い帯のようなりんごの皮は、女を突き動かす性である。象徴の対応は物語の冒頭にある。弟が訪問する前で、女は、駅の入場切符に描かれた赤い帯状の筋を性のエクスタシーの感覚に譬えていた。
闇の中で、からだに赤い筋が走ることがある。赤い筋は幅五センチほどで、ももの内側の、からだのまんなかのあたりから両足の足首に向かって、ゆっくりと走ってゆく。見える時と見えない時がある。
言うまでもないが、これは1976年の恐怖映画『キャリー』のシーンを連想させるように経血のイメージを重ねている。
物語の重層性は、主人公の彷徨のさなかの追想にある。戦後間もない若い日のこと、弟と二人、ある冬の一晩、電気も通らない無人の家の番をすることになった。寒く眠れもせず寄り添う暗闇のなかで彼女は、作品には明瞭には描かれていないが、弟に性の衝動を感じたようだ。そのとき、暗闇に突然の訪問者があり、弟に二つのりんごを手渡す。弟はその一つを姉に投げ渡す。
菊男は、りんごをひとつ、姉にほうってよこした。曇りガラスの格子戸越しに、月の光があった。うす闇というのかうすあかりというものか、その中を赤いりんごが、小さな抛物線を描いて飛んできた。
二人はりんごを丸かじりした。物語の結末では、姉は剥いて実だけ弟に投げ返した。りんごの赤い帯状の皮という不毛な性の衝動だけを自分で引き受けたということである。性の衝動に突き動かされる女の、魔性とでもいうものを引き受ける覚悟や倫理のようなものを向田邦子はこの作品で語った。
なお、りんごにはアダムとイブの原罪の象徴もあるだろう。短編だが挿話を足していけば、ボロヴズィックの『罪物語』のような鮮烈な映像作品に仕上がりそうにも思える。赤く帯状のりんごを噛む女はヒンズー教の血殺戮を好む戦いの女神・カーリーも連想させる。
「かわうそ」に描かれた自罰
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