家族と過ごせる時間は意外に少ない
私たちはいつ家族になるのでしょう。
ふと、そんなことを思いました。物心つくときには、父はもう父でした。母はもう母でした。
私たち家族はいつ終わるのでしょう。
それは人それぞれです。なかには、生まれた時から実の両親の顔を知らないという方もいます。一方では、70歳近くで90代の両親の世話をずっと続けている方もいます。
ひとつ言えることは、家族はいつか必ず終わる、ということです。子が独立した時に、親と過ごす時間はけっして多くないことを指摘したのが『親が死ぬまでにしたい55のこと』(親孝行実行委員会/泰文堂)です。同居していない60歳の親が80歳まで生きると仮定して、1年に盆暮れ正月で計6日会えるとしても、20年×6日=120日しか会えないのです。
私たちとその家族みんなが互いに元気で、病のことや老いのこと、介護やお金の問題、そして最終的な死にまつわること、それらを考えないで過ごせる時間はそれほど潤沢なわけではありません。
私は家族に恵まれなかった——そんな方もいます。確かに数千もつぶさに人生を伴走させていただきますと、厳しい事例を見聞きすることがあるのは事実です。しかし、それでも多くの場合、皆さんは誰かに支えられているはずです。私たちは最後にそれを見つけるのか否かという選択が残されています。
最後に父を許して逝った40代女性
緩和ケア病棟で出会った40代女性の神原さん(仮名)は、家庭に希望を持てずに、結婚しないままに来てしまった、と述懐しました。
神原さんのご両親は、神原さんが10代前半の頃に性格の不一致が理由で、離婚しています。そのため、神原さんは父親のことを快くは思っていませんでした。社会人になり、何度か恋人もでき、結婚を考えたこともありました。けれども自身の知る限りで、父も母もあまり結婚で幸せそうな印象がなく、彼女は最終的に非婚を選びました。
ところが、そんな神原さんが40代になったとき、突然、進行がんという病気に襲われたのです。「両親の不和で、結婚に希望を持てず、こうして1人で死んでゆく——」と、彼女の心は氷に閉ざされそうになっていました。
融解したのは、突然、父が、ホスピスに姿を現したことがきっかけでした。父の脇で、神原さんのお母さんが少しばつが悪そうな顔をしていました。というのも、幼い頃にさみしい思いをさせたことを悔いたお母さんは、2人でできることをしてあげようと、元夫に電話をしました。そして電話越しに2人で泣いて、娘を思う気持ちは同じであることを確認したのです。
神原さんはすぐには父を許すことはできませんでしたが、老いて70代も半ばとなった父の小さな背中を見た時、思ったそうです。
「私は何を憎み、何と闘ってきたのか」
目の前にいる、しわにまみれた顔で優しい目をしている父は、記憶の彼方にある憎しみの対象だった厳しい父とはまるで別人でした。
何を言っても言い訳にしかならない。だったら黙々と、世話をするのみ——そう任じたかのような、無口で献身的な父の介護でした。過去を振り返るよりも、自分には今すべきことがある。背中が語っているように私たちには見えました。
いつしか神原さんが父を見る目が優しくなりました。
「お父さん」
ある日、とうとうそうやって呼ばれたお父さんは、あわてて神原さんの口元に運ぼうとしたカップを落とすところでした。
償いは終わり、家族はかつて続けられなかった時間をもう一度取り戻すように2か月余りを一緒に過ごし、父母2人に見守られながら、神原さんは穏やかな顔で永訣の朝を迎えました。父と母と一緒に、最期を迎えることを神原さんは選び取ったのでした。
愛の形はひとつじゃない
水谷希代子さん(仮名)と林田昭子さん(仮名)は有料老人ホームの隣部屋同士です。2人は最初仲が良くありませんでした。
年齢は同じく80代の前半。水谷さんは独身を通した方で、やや遠慮がちなタイプ。林田さんは息子さんのお嫁さんと決定的に不仲で(結婚も反対でした)、今は息子さんとの連絡も絶えてしまっている状態です。林田さんは思ったことははっきり言う竹を割ったような性格です。
「いくらお金を払っていると思っているのよ」
林田さんは、介護職がミスをすると、かなりしっかりと指摘します。その調子がやや強いので、「難しい人」だとホームのスタッフや入居者さんの一部からは思われていました。あるとき、水谷さんが「そんなに厳しく言うことないじゃない」と林田さんに注意したことがきっかけで、喧嘩になってしまいました——。
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