第二章 静寂と喧噪(4)

洋子が爆発テロに巻き込まれたことを知り、彼女が心配でならない蒔野。時間が経つ程に不安は募り、彼女の安否を、彼女自身に起こってる出来事を考える時間がつづく……。

 昼になってスープとサラダの簡単な昼食を摂ると、蒔野はギターの練習を始める前に、またパソコンをチェックした。しかし、三通の受信は、いずれも広告メールだった。

 それから、ル・モンド紙のウェブサイトに移動して、バグダッドのムルジャーナ・ホテルで起きた自爆テロ事件の続報を探したが、新しい情報は見つからなかった。

 ニュースでホテルの名前を目にした数日前、蒔野は息を呑んでそのまま動けなくなってしまった。洋子が働いているRFP通信社の事務所が入っている建物だった。

 バグダッドから、彼女は何度か、蒔野にメールを書き送っていて、そのうちの一通には、部屋に置かれた彼のバッハのCDの写真が添付されていた。音だけならiPodで聴けるはずだが、彼女はCDを一枚、持って行ってくれたのだった。

 他の海外メディアも多くそこに滞在していて、RFP通信社は、その七階を借り切っていた。自爆テロは、一階のロビーで発生し、会合に集まっていた地元部族の長や警官など、三十人以上が死傷したらしい。

 犠牲者の中に、洋子の名前を見つけたわけではなかった。しかし、記事では、外国メディアの記者も数名含まれているとされていた。蒔野は、時間が止まったかのような感覚に襲われた。それから、「……え?」と声が漏れ、眉を顰めて身を乗り出すと、もう一度、パソコンで記事を読み返した。考える間もなく、心拍の方が先走って不穏に昂ぶっていた。

 洋子は巻き込まれていないだろうか? 安否を知りたくて、すぐ様、彼女にメールを書き送った。それから、念のためにもう一通書いたが、返事はない。これまでは、「外に出られないから。」と、メールを送ると、一日と置かず返信があったのだったが。

 最悪の想像とそれを打ち消す考えとが目まぐるしく去来した。緊張と弛緩との頻繁な繰り返しが彼を消耗させ、やがて麻痺したような曖昧な不安が胸に澱んだ。

 彼は何度か、三通目のメールを書きかけていた。しかし、書くべきことは既に書いていた。同じ内容を反復していると、その言葉は恐らく—前の二通と同様に—洋子にまでは届かないのだろうという感じがした。

 ネット空間の途上で、ただ、持ち主を失ったパソコンが開かれるのを待っている。いつの日か、洋子ではない誰かが、後処理、、、としてアクセスしたサーバーから、大量のメールがどっと溢れ出す。数日後か、数週間後か。その時には、彼の言葉もまた、ようやく一斉に発せられた、間に合わなかった呼びかけの一つに過ぎなかった。

 無論、無事であったとしても、今は混乱していて、それどころではないだろう。仕事の傍ら、殺到するメールを一つずつ片付けてゆく中で、自分のメールは、必ずしも優先されるわけではあるまい。精神的な意味で、今彼女を支えているのは、家族であり、ふるくからの友人であり、そして誰よりも、「アメリカ人のフィアンセ」のはずだった。二人の頻繁なやりとりの最中に、自分の三通目のメールがうるさく届く。その時の彼女のそっけない表情を想像して、蒔野は急に気後れした。

 「下書き」のまま保存されているメールを、彼はまた開いた。そして、とにかく無事を祈っているという気持ちだけを書いて、今度は送信ボタンを押した。やり場のない思いに駆られて、結局、そうするより他はなかった。

 初対面の時に洋子自身が語っていた通り、イラクの治安は、二〇〇三年の侵攻後、最悪の状態に陥っていた。二〇〇五年の議会選挙を機に、バグダッド陥落後の紛争は内戦へと移行し、民間人の犠牲者は急激に数を増していた。洋子がイラク入りする直前の前年十月には、一カ月間の死者数が、過去最多の三千七百九人にも上った。

 蒔野はその数を、いつもの癖で、コンサート会場の収容人数で想像した。サントリーホールで二千人。あの座席が、すべて無残な死体で埋め尽くされ、更に座りきれない死体が千七百体も山積みになっている光景。—地獄絵図だった。

 初対面の夜、自分に笑顔で語りかけていた彼女の姿を何度となく思い返した。そして、テロリストを目にした時の彼女の胸中を想像した。そんな余裕もなかったのだろうか? 彼女のように聡明な人間は、そういう刹那に、自分の運命をどんなふうに受け止めるのだろうか?

 蒔野は、ネットの情報を漁り続けていたが、知れば知るほど、彼女がこんな場所に身を置いているということが信じられなかった。

「父からは、《ヴェニスに死す》症候群だと言われました。父の造語で、その定義は、『中年になって、突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること』だそうです。まさにわたしです(笑)。

 生きて帰ってくるようにと、何度も念を押されました。父にそう言われたからには、無事に過ごさないと、といつも心に念じています。

 蒔野さんのご心配も、とてもうれしかったです。ありがとうございます。」

 洋子から貰った一週間前の最後のメールを読み返した。彼は、「現実社会への適応に嫌気が差して」という文言を、まるで自分自身のことのように読んだ。むしろ、彼女はあの夜、自分の中に何かそういったものを感じ取ったのではないかという気がした。その上で、共感を求めている。彼は、これがもし彼女の最後の言葉となるならと考えた。それはきっと、呪詛よりも重く、自分の人生にのし掛かってくるだろう。

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corkagency 洋子が爆発テロに巻き込まれたことを知り、心配でならない蒔野。時間が経つ程に不安は募り、彼女に起こってる出来事について想像するしかない時間がつづく…。# 約5年前 replyretweetfavorite