あけましておめでとうございます。今年もcakesをよろしくお願いいたします。はじめまして、ネットニュースの編集を仕事にしている中川淳一郎と申します。2012年は、「大企業だってリストラを敢行する時代で、もはや企業に頼れないから個人としてのブランドで勝負!」みたいな話をネットの各所で見た年でした。
フリーランスへの興味が高まってきたのかなぁ、という思いもあるわけで、「新しい年なので心機一転! 今年はフリーになるぞ!」なんて人に対し、私の11年間のフリーランス生活の実態をお伝えしますね。まぁ、人様に話せるほど立派なことをしたワケではまったくないのですが、案外楽しかったな、というのがこの11年間の感想なのと同時にこんな思いも同時にあります。
とりあえず39歳までは生き残れたけど、40歳過ぎたらどうなるのだろうか……
こんな不安を私も抱いているわけなので、この不安な気持ちを除去し、「だ、大丈夫だ、オ、オレはこ、これまで生き残ってきた。だ、大丈夫だ……」と強引に信じ込もうとすべく、書きますね。お金のこともかなり詳しく書いていきます。バカな話の連続になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。基本的にここでお伝えしたいことは以下の通り。
1.どうやって仕事を取っていくか、そこで展開されるやり取りの紹介
2.フリーランスとして獲得した仕事をどう進めていくか、その具体的方法の紹介
3.報酬の実態の紹介
2001年(27~28歳):年収60万円生活の開始
あぁ、冗談じゃねぇよ、なんでこんなクソオッサンの出世のためにオレは毎日会社に来てるんだ、くそ。冗談じゃねぇ、くそ。なんてことばかり考えていた2000年10月31日——徹夜明けの朝、一緒に徹夜した(エロいことはしてないぞ)美人ギャルのM嬢に対して突発的にこう言ってしまった。
「Mさん、オレ、会社辞めます」。
おそらく私は「そんなこと言わないで! 一緒に頑張ろうよ! 実はあなたが好きだったの、抱いて!」なんて甘い言葉を待っていたのだろうが、M嬢はこう言った。
「ふ~ん、いいんじゃないの」
一瞬拍子抜けしまったが、男が一度口にしたからにはもう会社は辞めなければなるまい。というわけで、私はその4ヶ月後に博報堂を辞める。何の実績もないままに。そして、4年目の額面の給料である860万円(残業代込み)を失うことに対しては「お前、バカか?」と多くの人から言われた。
博報堂を辞めてフリーになる人というものは、それはそれはすごい人だらけなワケである。ザッと挙げると天野祐吉(広告批評創刊編集長)、眞木準(コピーライター)、大貫卓也(アートディレクター)、箭内道彦(風とロック)、前田知巳(コピーライター)、佐藤可士和(アートディレクター)、中谷彰宏(作家)、酒井順子(エッセイスト)らがいる。彼らの多くは、社内にいた時にすでに売れっ子クリエーターとして名を馳せており、その実績があるからこそ、フリーになっても多数の仕事が獲得できるのである。
社内の誰もが彼らの代表的な仕事を知っているが、4年間で私が会社に残した印象と言えばたった二つである。
- 床の上で電話帳を枕に毎日寝てるヘンなヤツがいた
- 机の引き出しにレタスを入れているヘンなヤツがいた
こんな状態なだけに、会社を辞めても仕事などあるワケもなく、「フリー」ではなく単なる「無職」である。そんな27歳の無職生活が開始した2001年4月は、テレビを見ることと筋トレ以外にやることは一切なかった。その時住んでいたのは六畳一間の共同便所のアパート。「せきれい荘」という東京・大橋のこのボロアパートを住居として選んだが、理由はただ一つ。固定費を下げたかったのである。家賃は管理費込みで30000円。水道代は無料だった。
フリーになった頃の中川淳一郎さん。取材先のタイで。
固定費を極力下げることによって12年間無職でOKだと計算
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