日本建築論

メタボリスムの「出雲大社・伊勢神宮」論、日本が初めて世界と並んだ瞬間:第4章(2)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。だから、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになる。 本連載は、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

○二元論による日本回帰

 近代以降、日本の都市論は外国からの理論を移入してきた。が、1960年代になると、近代批判の動向とともに、西洋モデルの単純な追従から、求めるべき都市はすでに日本にあったという見直しが起きる。『建築文化』1963年12月号の特集「日本の都市空間」や、各地の集落を実測するデザイン・サーヴェイも、その一翼を担ったものだろう。

 前回とりあげた黒川紀章の著作『都市デザイン』(1965)や『行動建築論』(1967)は、当時の都市論を巧みにまとめながら、様々な要素が共存する都市というポストモダン的な帰結を導き、メタボリズム的な変化する都市を論じた。そして西洋的な二元論が導く広場に対抗する概念として、多元的な東洋の道をあげ、さらに都市と農村の対立を否定して、農村は都市になるという

 また『ホモ・モーベンス』(1969)では現代都市の特質をモビリティと位置づけ、日本人がもともと持っていた騎馬民族的性格を指摘し、『グレーの文化』(1977)は白黒をつけないことを日本的とし、『ノマドの時代』(1989)は江戸ブームを背景に情報化時代がすでに江戸にあったと、時代の波に乗りながら記す。

 『共生の思想』(1987)も、二元論批判による日本回帰の論理であるが、実はその西洋/日本という設定自体がそもそも二元論的な構造だという矛盾をかかえている。こうした二項対立を批判したかに見える日本回帰の論理は、彼以外の日本都市論にも共通して認められるものだ。


○出雲大社と出会う新しい形態

 が、同じくメタボリズムの主要メンバーだった菊竹清訓は、西洋との比較による相対的な立場をとるのではなく、内発的に伝統的な建築と向きあった。彼の主著『代謝建築論』(1969年/復刻版、彰国社、2008年)では、こう述べている。「新しい形態がつくり出されるのは、つねに伝統の上にであり、伝統の否定においてである。・・・伝統的形態が、新しい形態を生みだすのではなく、伝統的精神が、新しい形態をささえるものだと思う」。ゆえに、「古い伝統の中に、いかなる精神を発見していくかは、そこで重要な歴史に対する課題となるだろう」。

 1958年、菊竹は初めて出雲大社を訪れたている。そのとき、感動的な神殿との出会いがあったという。彼は火災によって焼失した施設の復興のため、境内にある出雲大社庁の舎(1963)を手がけることになる。このプロジェクトによって、彼はまだ30代半ばという異例の若さで、日本建築学会賞(作品)を受賞した。

出雲大社

 当時の『建築雑誌』に掲載された講評では、「伝統的な神社建築とコンクリート造の新しい造形の建物とを巧みに調和せしめたのは作者のすぐれた手腕を示すものである」と高く評価されている。なるほど、仏教建築では早くから不燃化などを理由にコンクリート造の施設を導入していたが、神社の場合、木造へのこだわりが強かった。ましてや出雲大社という由緒ある建築ならば、その重圧はもっと大きかっただろう。

 しかし、菊竹は「もし神殿の近くに建築を考えるとすれば、その建築は、古代におとらぬ現代の技術の大胆な、そして正しい適用によって、現代の希望を表現するものでなければならない」と考えた。まず、出雲大社を米倉のシンボルとみなし、刈り取られた稲を干す、地域独特の風景をつくる稲掛けをモチーフにして、ずらりと斜材をたてかけた造形を生みだした

 菊竹の出雲大社について建築ジャーナリストの磯達雄は、外に飛びだした柱が長い梁の両端を支える形式が、神社の棟持ち柱に通じると指摘している(『菊竹清訓巡礼』日経BP社、2012年)。すなわち、屋根の直接的な模倣ではなく、古代の神社の構造や、まわりの田園の架構物に着想を得ながら、建築的な形式性を抽出したといえるだろう。

出雲大社庁の舎〔1936年、設計:菊竹清訓〕

 『代謝建築論』によれば、神道の建築は「素材をそのまま試用し、その結果、単純で簡素な表現と形態」をもち、「徹底した単一素材主義の建築である」。そして構造と仕上げ、装飾という区分がなく、すべてが架構であり、仕上げであり、美的感覚を同時に満足させるという。

 こうした解釈はモダニズム的な見方と同じだが、神道については、農業の1年のリズムをもつ繰り返しのプロセスと一致した、再生の思想があると考え、メタボリズムに補助線を引く。ただし、『代謝建築論』は伝統的な建築の代表とされる伊勢神宮と桂離宮が繊細・優美・清楚であるのに対し、豪快・素朴・雄大な出雲大社、厳島神社、清水寺などのもうひとつの系譜が存在すると述べて、違いにも注目している。伊勢や桂は時代の爛熟期につくられたが、前者だという。そして彼は、現在の技術は生活のための手段になっているが、巨大建築の「出雲は素朴な技術時代の表象」であると位置づけた。



メタボリズムと日本型住宅

 後に菊竹は「日本型住宅」を唱えたが、「けっして、伝統的な木造建築の和風の礼賛でもなく、形式的伝承でもなく、新しい創造としての、これからの住宅という意味である」という(『日本型建築の歴史と未来像』学生社、1992年)。常に前向きなのが、いかにもアヴァンギャルドらしい。彼の歴史観は興味深い。4世紀は高床造、8世紀は寝殿造、12世紀は書院造、16世紀は数寄屋造という風に、おおむね400年ごとに、より包括的かつ、より開放的な形式が登場しているから、20世紀は新しい「自在づくり」を生みだすというのだ。日本型住宅の特徴としては、開放的、モジュールの基準尺度、引き違い建具、傾斜屋根、土壁、建て替えのシステム、増改築が自由にできることを挙げている。彼によれば、代表作のスカイハウス、樹状住居、海上都市は、そうした試みだった。

スカイハウス〔設計:菊竹清訓〕


 これは前述した二元論に近いが、人間の外に理想的な神が存在し、絶対的な建築や空間をめざした西欧に対して、日本の建築は異なったプロセスをたどっているという。「あくまで人間を中心にし、建築のほうは生活に応じて、増築したり、改築したり、あるいは移築したり、というように自由に変えることができるようにする建築のシステム化で、人間の生活に空間をうまく適応させようと考えてきた」。そして、こう述べる。「メタボリックな、自由に変化することのできる」日本のシステムは、形態の交代によるヨーロッパと違う。すなわち、新陳代謝するメタボリズムの建築運動が、伝統と接続している。

 実際、菊竹は20代後半という活動の最初期において、1953年頃から地元の久留米で、ブリヂストンの仕事を引き受けていたが、木造事務所を石橋文化会館(1956)に改築、木造の自動車工場を移築・改造した永福寺幼稚園(1956)など、ほとんどが木造の増改築だった。そのときの経験を踏まえて、彼は次のように語っている。「「代謝」まではいきませんが、とにかく「元あったものをどう利用するか」という再利用の方法というのは、相当なアイデアが必要なわけですよ」(内藤廣『著書解題』INAX出版、2010年)。

 そして菊竹は、20年ごとに式年遷宮を繰り返す、伊勢神宮の建て替えのシステムを重要な建築理念として、高く評価した。ちなみに、先日、国立近現代建築資料館で開催された「建築のこころ アーカイブにみる菊竹清訓」展(2014-15)において、彼が学生時代の製図で描いた興味深いドローイングが展示されていた。広島平和記念カトリック聖堂コンペのパースの下書きの裏側にある、伊勢神宮と思われる図面だ。

 菊竹は海外の講演において、自分は西洋建築の歴史や現代建築の理論に詳しいわけではないので、あえて日本の伝統建築から組み立てたデザインの課題を論じたと語っている(『代謝建築論』)。黒川紀章や槇文彦、あるいは磯崎新が海外の動向を知ったうえで、相対的に建築論を展開しているのとは、対照的な立場だ。

 その後、バブル期の講演において、菊竹は現代建築を五世代(ガラスと鉄とコンクリート/設備技術の革命/情報技術の革命/ロボット化/インテリジェント技術)に分け、技術と芸術をともに教え、経済や文化的な基盤が高い「日本が世界をリードするということはまず間違いのない、当然のこと」だという(『現代建築をどう読むか』彰国社、1993年)。菊竹の系譜にあたる伊東豊雄やSANAAらが現在、世界的に活躍しているのを想起すると、興味深い発言だろう。


○川添登という仕掛人

 川添登は、建築雑誌の編集者として活躍し、1950年代には伝統論争、1960年代にはメタボリズムの建築運動を仕掛けた人物である。こうした現代建築のシーンを活性化させる一方、伊勢神宮は、彼が半世紀にわたってとりくんできたライフワークだった。

 例えば、川添が編集を担当した『新建築』1955年1月号を見よう。これは丹下健三の自邸(1953)を紹介しているが、同号の構成は興味深い。巻頭が「伊勢神宮の内宮・正殿及び宝殿」、続いて丹下の論文「現代日本において近代建築をいかに理解するかー伝統の創造のためにー」、そして自邸や清水市庁舎などが紹介される。丹下はあまり自邸を発表するつもりはなかったらしいが、おそらく川添が説得し、伝統的な建築、住宅、公共施設を別物と考えない、誌面構成になったのだろう。実際、丹下の文章では、パルテノン、伊勢神宮、法隆寺も、「「美しき」のゆえにすべての人間のものであった」とし、住居も同じだと述べている。当時、丹下は川添をかわいがっており、結婚式では仲人をつとめ、新婚旅行では伊勢に行くといいと言ったという。川添は戦前の修学旅行ですでに訪れてはいたが、このとき伊勢神宮に初めて感動し、最初の伊勢神宮論となる著作『民と神のすまい』(光文社、1960年)を刊行した(内藤廣『著書解題』)。

 川添の著作『建築と伝統』(彰国社、1971年)の表紙は、伊勢神宮である。同書では、伊勢の社殿が「日本のフェニックス」のように生き続けていると形容しているが、戦後の焼け跡から復興した日本の姿にも重ね合わせているのかもしれない。彼は伊勢を訪れて、外宮に対し、従来言われていた「清楚、端麗、明瞭」というよりも、違った印象を受けたと言う。いわく、「原始的な、野性的なものにイメージがあった。・・・それは私のイメージをはるかに超えた荒々しい迫力で訴えかけてきたのである。・・・諸殿の棟々が作り出す異様な空間は、原始人の大酋長の館のような錯覚を私に与えるものであった」。ブルーノ・タウトの伊勢神宮に対するモダニズム的な評価と比べると、よりそのたくましい生命力に反応している。

 なお、川添は、内宮はそれほどの迫力がなく、彼の解釈によれば、対照的な神であるアマテラスオオミカミ(人格的な太陽神)とトヨウケノカミ(荒々しい農業神)を同じ社殿に入れており、前者は棟持柱、千木、高床などの垂直的な宇宙表象をもち、後者は南方的、農業的なものを起源とする。そして「神宮建築は、南方的、農業的なものを基盤として、北方的ないし大陸的な意識や技術が、洗練されていったと考える」。

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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