蒔野は諦めが悪く、もう一度、送受信ボタンを押し、今度は何も受信しなかった。そして、仕事関係のメールを二通開封したところで、返信もしないままパソコンを閉じた。
マグカップを片手に窓辺に腰を下ろして、彼はぼんやりと外を眺めた。
父の死後、そのささやかな遺産と自身の蓄えとを足して頭金とし、代々木の古い四階建てのビルを買い取って、自宅兼仕事場にしていた。一階はガレージ、二階は練習スタジオで、三階は倉庫、四階が住居である。
部屋の内装は極力簡素にして、余計なものは皆、三階に押し込んでいた。家具は、ツアー先で見つけたものを、その都度、購入して揃えていったもので、moooiのカーペットのようなコンテンポラリーなものとアールデコのダイニング・テーブルを始めとするアンティークとがよく調和し、どこで聞きつけたのか、何度かカルチャー誌のインテリア特集で取材を受けたこともあった。
ソファは、ウレタン製のリーン・ロゼのトーゴが気に入っていて、今も橙色のその一人掛けを、冷気が届かない程度の窓辺に引っ張ってきていた。
代々木公園に隣接していて、窓からの景色は、四階まで高いヒマラヤスギに覆われている。その濃緑の枝をたわませながら、雪は繊細に積もっている。
灰白色の空を背に、音もなく一定のテンポで続く雪の落下が、やがて蒔野の時間感覚を乗っ取っていった。
こんな日でも、遠くから微かに建設現場の作業音が聞こえていた。それ以外は、強風にした暖房の音と、組み替える足の衣擦れや小さな溜息、歯の隙間で鳴る唾液の響きなど、彼自身の体の発する音だけだった。普段から静かな界隈だが、今日はまた特別だった。
静寂。——蒔野はそれを、改めて、なんと心地良いものだろうかと感じた。
「音楽は、静寂の美に対し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。」
少年時代の彼が、初めて、音楽を概念的な言葉とともに理解した芥川也寸志の『音楽の基礎』。彼は、父と一緒に読み、かつては肝に銘じたその定義的な一文を反芻して、少し首を傾げた。
『半世紀前の東京は、まだそんなに静かだったんだろうか。東京というか、この世界そのものが。……』
彼は、自分は今、一体何と戦っているのだろう、と考えた。「静寂の美」だろうか。むしろ、もう何年も前から、その対極にある喧噪とこそ戦ってきたのではなかったか。こんなにも完璧に美しい時間!
それを断念してでも、耳を傾けたい音楽。「新たな美」。——何の疑いもなく、ただそれだけを求めて演奏していた頃には、自分のギターも、今より少しは、マシな音を響かせていたのではないか。自分だけじゃない。今はもうどんな音楽家も、聴衆も、そんな豊かな静寂は許されていない。少なくとも、十分に長い時間、たっぷりと浸れるほどには。……
彼は、自分がうんざりしていることを、到頭、根負けしたように認めた。——そう、うんざりしていた。これまで慎重に、その自覚を避けてきたが、昨日の三谷との会話が、最後にはあっさりと彼を籠絡してしまった。苛立っていたのは、そのせいだった。
うんざりだ、と彼はもう一度、苦いものを噛みしめるように繰り返した。そして、その一言が、自分の体にどんな影響を及ぼすのかを想像して不安になった。「スランプ」というのの始まりは、案外こういう感じなのではあるまいか。
彼は左手の指先に目を遣った。開いたり閉じたりした。それから、速い旋律を指板の上で押さえるような動きをした。——日常、どれほど従順に振る舞っていても、音楽を奏でる時はまた別だった。出し抜けに、実はあの一言が気になっていたと、震え出したり、暴れ出したりしないでもなかった。そうした肉体の、ほとんど幼稚なほどの繊細さと、彼はこれまでのところ、かなりうまくつきあってきていた。そして、あまりに長く慣れ親しんできた分、変化といえば、あとはもう離反以外にないような気もした。
急に、彼は自分の意志にまったく従順に動いてみせるその左手に、白々しさを感じた。うんざりしているなどという内心の声を聞かされて、今まで通り、平然としていられるものだろうか?
彼は、両手を組んで、揉みしだくようにその感触を確かめた。血の気が失われて白くなったり、逆に圧迫されて赤くなったりした。指の肉を介して、骨同士を軋ませるように強く絡ませた。痛みの内に、彼は肉体の本音を聞き取ろうとし、一体感を確かめようとした。そして、虚しくなって、もう一度、強く両手を握り合わせると、解放してやるように、力なく膝の上に落とした。
『——生きることと引き替えに、現代人は、際限もないうるささに耐えてる。音ばかりじゃない。映像も、匂いも、味も、ひょっとすると、ぬくもりのようなものでさえも。……何もかもが、我先にと五感に殺到してきては、その存在をめいっぱいがなり立てて主張している。資本主義の大声競争。……社会はそれでも飽き足らずに、個人の時間感覚を破裂させてでも、更にもっとと詰め込んでくる。堪ったもんじゃない。……人間の疲労。これは、歴史的な、決定的な変化なんじゃないか? 人類は今後、未来永劫、疲弊した存在であり続ける。疲労が、人間を他の動物から区別する特徴になる? 誰もが、機械だの、コンピューターのテンポに巻き込まれて、五感を喧噪に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフー言って生きている。痛ましいほど必死に。そうしてほとんど、死によってしかもたらされない完全な静寂。……』
蒔野はそれを、もう何年にも亘って、舞台上で感じてきていた。
クラシック・ギターに最適な会場は、本来は、演奏者の意識が、客席の隅々にまで届く程度の規模である。それがこの楽器を、聴く者にとって特別、親密な存在にしている。彼自身が性に合っていると感じるのも、その理由のためだった。
聴衆の大半はクラシック・ファンであり、年季の入ったギター愛好家であり、その他、彼をテレビのトーク番組やポップスのカヴァー曲で知ったという者も少なくなかった。どこの会場にも現れる熱心な追っかけがいる一方で、“天才”という評判に誘われて来たと、骨の折れそうな自意識を覗かせつつ、わざわざそう一言告げて帰る者もあった。
芥川の言う「静寂の美への対決」とは、ひとつに、舞台に立つ人間の感覚だった。
コンサート会場は、音楽以前にまず、静寂をこそ壁で囲い込んで守る場所である。それは、この社会の、いや、自然界にさえどこにも存在しない、静寂の避難場所である。
蒔野自身、昨年は八十六回もその「静寂の美」と対峙していた。彼はそれを、刃物の冴えを確かめるように感じ取り、その冷たい先端がそっと胸に触れるのを待つのだった。
ツアーを通して、彼はある気懸かりな経験をしていた。
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